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佐倉市の文化財-史跡(1)「城跡・遺跡・古墳」

[2017年3月15日]

ID:5038

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飯郷作遺跡 <いいごうさく-いせき> (下志津)

  県立佐倉西高等学校の新設に際し、昭和51年(1976)から翌52年にかけて発掘調査が行われた結果、前方後方墳2基、一辺12mの方墳2基、一辺4から7mの方形周溝墓23基のほか、縄文時代早期の炉穴1基、弥生時代後期から平安時代にかけての竪穴住居跡109軒ほかが検出されました。 このうち古墳時代前期に築造されたと考えられる前方後方墳1基(2号墳)、方墳2基(3号墳・4号墳)、方形周溝墓5基(D01からD05)が校庭に現状保存されています。 古墳時代の前方後方墳・方墳と弥生時代の墓制の流れをひく方形周溝墓とが一連の関係をなしている全国的にも珍しい例であり、墓制の変遷を知る上で重要な意義を持っています。

  〔昭和54年(1979)3月2日県指定史跡〕

井野長割遺跡 <いの・ながわり-いせき> (井野)

  現在の井野小学校の周辺に広がる縄文時代後・晩期の集落跡です。 昭和40年代に小学校の建設及び増築に先だって発掘調査が実施され、その後も数度の調査が行われています。
  小学校の建設に伴う調査では、縄文時代後期の竪穴式住居跡3軒共に縄文式土器(後・晩期)の破片を多量に集積したマウンド状遺構(土器塚)が発見されました。 住居跡1軒の土器塚からは、異形台付土器2点が出土しました。また、土器塚からは異形台付土器に類似した香炉形土器が出土しました。

  ※遺物の一部は、臼井公民館2階「まちづくり資料室」に展示しています。

井野長割遺跡パンフレット(クリックするとPDFファイルが開きます)

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  〔平成17年(2005)3月2日国指定史跡〕

江原台遺跡 <えばらだい-いせき> (江原台)

  江原台遺跡は、印旛沼を北に望む海抜28mの台地上に広がっています。
  昭和50年代に継続して行われた発掘調査では、竪穴式住居跡など多数の遺構と多量の遺物が検出され、縄文時代中~晩期、弥生時代後期、古墳時代、奈良・平安時代の集落跡が発見されました。
  縄文時代では、中期の有孔鍔付注口土器<ゆうこうつばつきちゅうこうどき>、後期の山形土偶や異形台付<いけいだいつき>土器、晩期の亀形土製品が出土しています。 弥生時代後期の集落では、3期の炉を備えた大型住居跡が検出されました。奈良・平安時代では、多数の墨書<ぼくしょ>土器が出土しました。

岩名天神前遺跡 <いわな・てんじんまえ-いせき> (岩名)

  関東地方では最も古い弥生時代の墓の遺跡で、墓からは人骨とともに東日本では最古の特徴を持つ弥生土器や管玉などの遺物が出土しました。
  調査の結果、人骨は二度埋葬されており、弥生土器は骨を納める容器として使われていたことがわかりました。 この調査を契機に、東日本にみられるこのような墓を再葬墓と呼ぶようになります。

吉見台遺跡 <よしみだい-いせき>  (吉見)

   縄文時代中から晩期の集落跡であるこの遺跡は、印旛沼の南約2.5kmに位置し、付近は南北に流れて印旛沼に注ぐ手繰川と鹿島川に挟まれ、印旛沼に向かって延びる標高20から30mの台地上にあります。
  住宅地の造成に伴う発掘調査が昭和58年(1983)10月から実施され、調査によって検出された遺構は、縄文時代早期(約7000年前)から各時代にわたっており、土器をはじめさまざまな遺物が見つかっています。

寺崎向原遺跡 <てらさき・むかいばら-いせき>  (寺崎)

  現在の寺崎小学校の南西に広がっていた遺跡で、弥生時代後期から奈良平安時代まで断続的に集落が営まれていたようです。 また、弥生時代中期には、東の台地上に広がっていた六崎大崎台遺跡の集落に対応するように、寺崎小学校の南隣の周辺に方形周溝墓が多数造られていました。
  現在、遺跡の大部分は大崎台4丁目の住宅団地と姿を変えていますが、JRのトンネル上の台地上に遺跡の一部が残っています。

六崎大崎台遺跡 <むつざき・おおさきだい-いせき> (六崎)

  JR佐倉駅の南西に、かって工業団地から佐倉駅方面へ伸びる台地があり、その平坦部に六崎大崎台遺跡は広がっていました。 現在の大崎台3丁目の住宅団地周辺にあたります。
  佐倉駅南土地区画整理に伴い昭和54年(1979)から発掘調査が実施され、縄文時代早期の炉穴26基、弥生時代の方形周溝墓18基、古墳時代前期の方形周溝墓6基、縄文時代から奈良平安時代の竪穴住居跡595軒、奈良平安時代の掘立柱建物跡72棟などが発見されました。 弥生時代中期には、竪穴住居跡群を取り囲むように溝が掘られた環濠集落が形成されていました。

八木山ノ田遺跡 <やぎ・やまのた-いせき> (八木)

  弥生時代中期・古墳時代前期・奈良時代の集落跡で、高崎川南岸の台地上に位置します。
  平成8年(1994)の発掘調査では、奈良時代の竪穴状遺構から仏面墨書土器が出土しました。 この土器は、土師器の甕の胴部に手慣れた筆使いで仏の顔が描かれたもので、竪穴状遺構の北西角にその他の土師器や須恵器とともに置かれていたようです。 墨で人の顔を描いた土器(人面墨書土器)は、他の遺跡でも出土していますが、仏の顔を描いた例はここが初めてです。

上座貝塚 <じょうざ-かいづか> (上座)

  印旛沼に注ぐ井野川によって削られた海抜約25mの台地上に位置する縄文時代早期の小貝塚群です。
  昭和32年(1957)5月に行われた明治大学の調査では、竪穴住居跡2軒と火を炊いた炉穴7基が発見され、縄文時代早期後半の土器が出土しました。 住居跡に炉はなく、屋外の炉穴で調理をしていたようです。 楕円形の炉穴は、深いものには煙を出すための煙道を備え炉穴の機能を明らかにしたものがありました。

   〔昭和57年(1982)4月6日県指定史跡〕

上人塚古墳 <しょうにんづか-こふん> (小篠塚)

   小篠塚にある上人塚古墳は鹿島川を眼下に望む標高32mほどの台地縁辺に位置する古墳です。 北側と東側の一部分が削平されていますが、よく整った方形を呈し、1辺22.6m、高さ3.5mを測る市内でも有数の方墳です。
  未調査のため、埋葬施設や副葬品については明らかではありませんが、占地状況及び形態から古墳時代終末期(7世紀代)の所産と推定されています。 この古墳の南西側には直径8mほどの円墳も存在しています。

   〔昭和41年(1966)9月26日市指定史跡〕

山崎ひょうたん塚古墳 <やまのさき ひょうたんづか-こふん>(山崎)

  印旛沼を眼下に望む海抜29mの台地縁辺に位置する前方後円墳です。
  古墳の大きさは現存長37m、後円部径25m、後円部高7.4m、前方部高3mを測ります。 前方部の一部が崩落しているため不明瞭ですが、築造時には40mを超す大きな古墳であったと推定されます。
  また、未調査であるため内部施設や副葬品については不明ですが、立地条件や前方部が低く形態が未発達であるという特徴から、古墳時代前期に築造されたものと考えられます。

   〔昭和50年(1975)4月23日市指定史跡〕

長熊廃寺跡 <ながくま-はいじ あと>(長熊)

  長熊廃寺跡は長熊の五良神社境内地に位置しています。
  昭和26年(1951)に立正大学史学研究室を中心とする調査団により発掘調査された結果、塔を東に、金堂を西に配した法起寺式の伽藍配置をもつ寺であり、奈良時代末の建立と報告されました。
  昭和61年(1986)には千葉県文化財センターにより再調査が実施され、従来、金堂及び講堂としていた遺構が疑問視され、伽藍配置そのものにも疑義が生じました。 成果としては、瓦、瓦塔の他に「高岡寺」と書かれた墨書土器が出土しました。 当時この寺は高岡寺と呼ばれていたと考えられます。

  〔昭和42年(1967)3月7日県指定史跡〕

佐倉城跡 <さくらじょうせき> (城内町)

  佐倉城跡のある台地は鹿島山といわれ、戦国時代に千葉氏一族の鹿島幹胤<かしま・もとたね>が城を築いた地と伝えられています。この後、慶長15年(1610)から土井利勝が領主として入封し、利勝は翌慶長16年1月から元和3年(1617)まで7年間をかけて佐倉城を築きました。
  明治6年(1873)1月、佐倉城内に陸軍第一軍管東京鎮台の佐倉営所が置かれるようになると、城内の建造物は順次取り壊されていきました。

   〔昭和37年(1962)3月28日市指定史跡〕

本佐倉城跡 <もとさくらじょうせき> (大佐倉・酒々井町本佐倉)

本佐倉城跡の写真

  文明16年(1484)頃から天正18年(1590)まで、千葉氏の本拠地とされた城郭です。 この周辺には、城下町も栄えていました。 この城跡の大部分は、現在酒々井町に含まれますが、北西部の一部は、佐倉市になっています。 その保存状態は良好であり、今でも壮大な土塁や空堀が残されています。

   〔平成10年(1998)9月11日国指定史跡〕

臼井城跡 <うすいじょうせき> (臼井)

  臼井城跡は、臼井氏によって築かれたといわれますが、16世紀中頃には原氏が臼井城主となります。 戦国時代に原氏は、千葉氏をも凌ぐ勢力となり、永禄9年(1566)には上杉謙信の臼井城攻撃を撃退しています。 しかし、天正18年(1590)7月に原氏は北条氏とともに滅亡し、翌8月には臼井城に徳川家康の家臣酒井家次が入城します。 慶長9年(1604)12月に家次上野国高崎に天封されると臼井城は廃城となりました。

   〔平成6年(1994)2月16日市指定史跡〕

岩富城跡 <いわとみじょうせき> (岩富)

  鹿島川と弥富川の合流点を見下ろす台地にあります。 中心部は五角形をした平坦地で、その周囲には土塁が巡っています。 東側と南側には空堀があり、北側と西側に鹿島川に面した崖に細長い平坦地を設けて、防御を強化しています。 東側の堀には出入口となる土橋が設けられており、その両脇に土塁を設けて守りを固めています。
  この地域には千葉氏一族である白井氏が領主として存在しましたが、15世紀後半には原氏がこの地を支配します。 江戸時代には北条氏勝がこの地に配されましたが、慶長18年(1613)の北条氏転封により、岩富城は廃されました。

城城跡 <じょうじょうせき> (城)

  城にあるこの城跡は、JR佐倉駅の南東約1.5kmにあります。 この地は、中世には印東荘六崎郷の一部でした。 「香取造営料足納帳」によると、六崎郷は15世紀初頭の応永年間には六崎氏が領していました。
 「城」の地名は、この城跡のある台地の奥にある浄土宗円城寺、もしくは千葉氏の有力な一族円城寺氏に因むものと言われています。
  この城跡の南には、城に侵入する敵を、脇の高台から攻撃する施設がある金部田城跡があります。

小竹城跡 <おたけじょうせき> (小竹)

  変形の五ないし六角形をした単郭構造の城郭で、その規模は南北約75m、東西約85mで、曲輪の周囲には高さ3mほどの土塁と空堀がほぼ全体に巡っています。また、曲輪の内部はハードローム面まで削り出されているため、外側の台地より一段低くなっています。 出入り口の虎口は曲輪南側の中央にあります。 その前面には土塁が構築され、虎口の外側から内側を見通すことのできない構造となっています。
  臼井城跡の西方に位置するこの小竹城跡からは12から16世紀代の遺物が採集されていますが、現在残されている遺構は、原氏が臼井城主にあった16世紀中頃から後半の時期のものと考えられます。

小篠塚城跡 <こしのづかじょうせき> (小篠塚)

  小篠塚にあるこの城跡は、JR佐倉駅の南方約3.5kmの鹿島川右岸の台地上にあります。 台地先端部の西側に、この城において一番広い平坦地があり、ここがこの城の中心部となる。 土塁がほぼ全周し、東にある出入り口には侵入する敵を脇から攻撃できるようになっています。
  この城跡に関する史料は残されていませんが、平安時代から鎌倉時代の初めには、この地域を印東氏が領していました。 14世紀末には、この地を平河氏と宍倉氏がこの周辺を知行しており、戦国時代には古河公方足利成氏が、一時期ここに居を構えたこともあったようです。

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