佐倉市の文化財-史跡(3)「その他」

更新日:2022年08月31日

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江原刑場跡 <えばら-けいじょう あと> (江原台)

 国道296号線を臼井から佐倉方面へ向かうと八丁坂に至ります。 坂をのぼっていくと、左手に「南無妙法蓮華経」の髭題目を棹石に大きく深く刻み込み、台石に「法界」「講中」と刻んだ供養塔があります。 これは寛政8年(1796年)9月に法華宗の題目講中により造立されたものです。 成田道の道筋に面したここは佐倉城の西端にあたり、八町森と呼ばれ、佐倉藩が罪人の処刑を行った刑場跡です。
 また、この地で、天保14年(1843年)に佐倉藩医で蘭方医であった鏑木仙庵らによって、刑死者の腑分け(解剖)が行われました。 このような解剖が行われたのは佐倉藩では初めてのことであり、全国的に見ても早い時期のものと考えられます。

旧佐倉順天堂 <きゅう さくらじゅんてんどう> (本町)

大きな門柱の旧佐倉順天堂の入り口写真

 佐倉順天堂は、天保14年(1843年)に佐倉藩主堀田正睦(当時は正篤)により佐倉に招かれた蘭方医佐藤泰然が開いた蘭方医学の病院と塾です。 当初は、現在地の向かい側にありましたが、安政5年(1858年)に現在地に新築されました。 明治初年頃と大正10年(1921年)に増築、修理が行われています。
 順天堂には日本各地から塾生が集まり、当時としてはかなり高度な医学を実地に学んでいました。 のちに明治時代の医学界をリードする人材が育成された由緒ある史跡であることから、昭和60年(1985年)に佐倉順天堂記念館として公開し、近代医学の黎明期の様子を今に伝えています。

 〔昭和50(1975年)年3月28日県指定史跡〕

佐倉養生所跡 <さくらようじょうしょ あと> (宮小路町)

 佐倉藩の西洋式病院で、幕末の慶応3年(1867年)9月に開業し、明治維新により翌年の4月には閉鎖されました。
 この養生所は、万延元年(1860年)にオランダの軍医ポンペや幕府の医官松本良順(佐藤泰然の二男)らが中心として長崎に設立した「長崎療養所」をモデルにしたものと考えられます。 この養生所では、12俵半取以下の小給の佐倉藩士や領内町在の窮民の収容治療と調薬が無料で行われました。 また、藩で使う薬はすべてこの養生所で公的に調薬されました。

修静居跡 <しゅうせいきょ あと> (宮小路町)

 明治時代の道徳家、旧佐倉藩士西村茂樹は、明治5年(1872年)に佐倉城外68番屋敷に寄留し、書室を「修静居」と名付けました。 茂樹はここで『校正萬國史略』41巻を編さんしました。 現在石碑のある土地は、修静居跡の斜め向側にあたります。

 〔昭和54年(1979年)6月29日市指定史跡〕

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