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名族・千葉氏の当主・重臣

[2016年12月28日]

ID:14725

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千葉 常胤(ちば つねたね) ~千葉氏中興の祖~

 元永元年(1118)~建仁元年(1201)

 千葉常胤は、千葉氏の初代当主千葉常重(つねしげ)の子で、千葉氏繁栄の礎を築いた人物です。

 治承4年(1180)、伊豆に流されていた源頼朝が平氏打倒を掲げ挙兵しました。常胤は、頼朝の求めに応じ、子息に下総の目代(国司が現地に派遣した代官)を攻撃させます。さらに、平氏に与する下総の藤原親政(ちかまさ)を攻め、下総一帯の支配を確立しました。

 このように、有力な御家人として常胤は、頼朝に従いつつ、九州や京などを転戦し、軍功をあげたのです。

 常胤は、当時としては異例の84歳まで生き、その働きと人望から、頼朝から「父」として慕われたとのエピソードも残っています。

 なお、常胤亡き後の所領は、「千葉六党」と称される6人の息子たち、つまり、千葉氏、相馬氏、武石氏、大須賀氏、国分氏、東(とう)氏に分割して相続されました。

馬加 康胤(まくわり やすたね) ~千葉氏一族の内紛はじまる~

 応永5年(1398)~康正2年(1456)

 馬加康胤は、千葉満胤(みつたね)の子で、馬加(現在の幕張)を拠点にしました。

 康胤のころ、関東を統治するために置かれていた鎌倉公方と関東管領の政治的対立が激化します。鎌倉公方足利成氏(しげうじ)は、康胤、原胤房(たねふさ)とともに、関東管領上杉氏に加担した千葉胤直(たねなお)、胤賢(たねかた)を多胡城、志摩城(現在の多古町に所在)において破りました。

 しかし、関東管領を支持する室町幕府は、東常縁(とうのつねより)に命じ、胤賢の遺児千葉実胤(さねたね)、自胤(よりたね)兄弟を立て、足利成氏方の馬加康胤、原胤房(たねふさ)と戦っています。この戦闘で、康胤は討ち死にしました。これ以後、康胤系統の子息が、下総国の千葉氏を継承していくのです。

千葉 輔胤(ちば すけたね)・孝胤(のりたね) ~享徳の乱を生きた父子~

 輔胤 応永23年(1416)~延徳4年(1492)

 孝胤 嘉吉3年(1443)~永正2年(1505)

 千葉輔胤は、馬加康胤の子とされ、下総国印東庄岩橋村に拠り、「岩橋殿」と称されました。子の孝胤とともに、「享徳(きょうとく)の乱」と呼ばれる乱世を生きました。

 享徳の乱(享徳3年(1455)~文明14年(1483))とは、鎌倉公方(のち古河公方)と関東管領の対立から始まり、関東一円の氏族を巻き込んだ争いの時代です。

 輔胤、孝胤父子は、長尾景信(ながおかげのぶ)によって古河城を追われた古河公方足利成氏に助成し、敵対する上杉方との争いを繰り広げました。

 孝胤は、上杉方の太田道灌(おおたどうかん)、資忠(すけただ)との戦いで臼井城を追われ、本佐倉城に撤退しています。

 なお、輔胤、孝胤の生きた文明年間(1469~86)に、本佐倉城(現、佐倉市大佐倉、酒々井町本佐倉)へ拠点を移したとされています。

【現在の本佐倉城跡を空から望む】

千葉 勝胤(ちば かつたね) ~和歌を愛した文化人~

 文明2年(1470)~天文元年(1532)

 千葉勝胤は、千葉孝胤の子で、本佐倉城城主となった人物です。

 時代は、父子兄弟が争う乱世であり、古河公方の内紛では、足利高基(たかもと)に助成しています。

 本拠地の大佐倉には、菩提寺として勝胤寺を創建し、馬加(幕張)にあった海隣寺を移すなど、本佐倉城を中核とする城下を整備しました。

 ところで、勝胤は和歌を好んだといわれています。歌人、衲叟馴窓(のうそうじゅんそう)は、勝胤の庇護を受け、「雲玉和歌抄(うんぎょくわかしゅう)」を編纂しました。それによると、勝胤は、一族や家臣等と、頻繁に歌合や歌会を催していたようです。

【勝胤寺には千葉家供養塔が建てられている】

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