2、泰然が実践した医療と手術

更新日:2022年06月01日

ページ番号: 11325

泰然は佐倉で順天堂を開いた後にどのような医療や手術を実践していったのか。泰然の知識と経験が活かされた佐倉での種痘接種、様々な外科手術の実践について現存する資料から迫り、泰然の佐倉での活躍を見ていきたい。

(1)佐倉での種痘接種と泰然

佐倉藩における種痘の実施

 順天堂を開いた後、泰然は藩校の成徳書院で蘭医学の講義を行うとともに、藩主・正睦へ外交政策の助言も行ったという。佐倉藩医の技能向上にも貢献したことをよく示すのが、天然痘の予防接種である種痘の実施である。

 長崎では、シーボルトが牛痘を用いるジェンナーの種痘法を伝えていたが、効果のある痘苗が手に入らず知識の伝播にとどまっていた。嘉永2年(1849年)7月に、長崎に効果のある痘苗がようやく届き接種に成功すると、江戸を通じて佐倉にも痘苗が届き、同年12月には佐倉医学所と子育方役所から種痘接種についての触れが出されている。藩内の医師は種痘の接種の技術を学ぶことが命ぜられた。

泰然の貢献

 泰然はすでに長崎でジェンナーの種痘法を学んでおり、これを詳細に説明したモストの『医事百科全書』の「牛痘編」を翻訳するなど、種痘の実施に大きく貢献している。長崎での成功後、わずか半年もたたないうちに佐倉で種痘が実施されたのは、泰然をはじめとする順天堂の医師たちによる功績が大きかったと考えられる。

 その一つに数えられるのが、泰然が佐倉医学所のために、モストの『医事百科全書』の「牛痘編」の個所を訳していることである。『医事百科全書』は、モスト最大の著作で、ジェンナーの種痘法が詳しく説明されている。この訳本には、泰然とともに西淳甫が校訂したことが書かれ、佐倉医学所の印が押されていることから、この書を通じて藩の医師たちに牛痘の技術が共有されたものと考えられる。

資料紹介

種痘器具

種痘の接種用器具7種類の写真

 種痘の接種に用いられた器具で、細いガラス管にワクチンを入れ、接種の際にガラス板のくぼみにワクチンを出す。折り畳みの小型刃物は、種痘メスでワクチン接種のため腕に小さな傷をつける。二本の金属の刃物はランセットと呼ばれ、先端にワクチンをつけ傷口に押し付けるものである。『内科秘録』巻十四などに種痘の手法について解説がなされており、これと同様の器具が描かれている。(佐倉市教育委員会蔵、国立歴史民俗博物館寄託)

佐倉藩種痘諭文

2枚の種痘諭文

 佐倉医学所から出された種痘を進める文書。右が佐倉医学所から出されたもので、藩主・正睦、重臣・渡辺弥一兵衛が自分の子女に試みて、その無害を証明し領民に実施を促していることがわかる。左の子育方役所からの文書には、佐倉藩の医師すべてが種痘の技術を学んだこと、貧富の差なく治療が受けられるので領内の子どもたちに医学所で種痘をすることを勧めていることが書かれている。
(佐倉市蔵)

(2)外科手術で名を馳せる

高度な手術を麻酔なしで成功させる

 泰然は、当時としては高度な外科手術を多く成功させたことでも知られている。嘉永4年(1851年)に日本で最初の「膀胱穿刺」の手術を行い成功させている。この手術は小便が詰まって激しい痛みを起こす病気のため、膀胱に中空の針を刺して、小便を吸い取るという手術であるが、泰然は麻酔なしで成功させた。翌年、非常に難しいとされていた卵巣水腫の手術も行っている。卵巣に異常に多くのリンパ液がたまる病気であり、開腹する必要があったが麻酔なしで実施。さらに乳癌などの手術も麻酔を用いることなく成功させている。門人の関寛斎が記した『順天堂外科実験』には、これらの治療の詳細な内容が書き残されている。

手術料金表や手術承諾書も残る

 また、安政元年(1854年)の『療治定』には、順天堂で行われていた手術などの治療の料金が記され、乳癌摘出、瘤摘出、割腹出胎児術、造鼻施術といった高度な外科手術が行われていたことがわかる。さらに、当時としては珍しい手術承諾書も残っていることも注目される。加えて、手術道具や泰然の時代に輸入されたと思われる舶来薬品類などの資料も残されている。これらの資料により、当時の順天堂の医療の実践をより具体的にうかがい知ることができるのである。

人物紹介

関 寛斎(せき かんさい)

関寛斎の肖像写真

 文政13年(1830年)、上総国東中(千葉県東金市)の農家の長男として生まれた。儒学者関俊輔の養子となり、順天堂に入門し泰然のもとで学ぶ。26歳の時、銚子で開業するが、万延元年(1860年)に醤油醸造業を営む豪商濱口梧陵の支援を受け長崎に遊学しポンペに師事した。その後、徳島藩に招かれ侍医となる。戊辰戦争が勃発すると新政府側の奥羽出張病院頭取として負傷者の治療にあたった。
 その後、徳島に戻り徳島藩医学校を創立、明治6年(1873年)、禄籍を奉還し町医者として、以降30年間地域医療のために尽力する。貧しい人々には無償で治療を施すなど、地域の人々から厚く慕われた。
 その後、北海道の開拓を志し、明治35年(1902年)、72歳にして北海道陸別町の開拓事業を行った。徳富蘆花を通じてトルストイの思想に傾倒し、理想的な農村建設をこの地で目指したが、果たせず大正元年(1912年)、自ら命を絶ち波乱の生涯を閉じた。

資料紹介

順天堂外科実験

順天堂外科実験の書物の写真
順天堂外科実験の見開きの写真

 門人の関寛斎によって記された佐倉順天堂で行われた治療の記録。嘉永3年~6年(1850年~53年)にわたって行われた33の症例(内科的症例は2例)を具体的に書き残している。
(順天堂大学蔵、画像提供:順天堂大学医史学研究室)

外科手術道具

手術道具一式の写真

 左から、骨を切るためのノコギリと替え刃、傷口の弾丸などの異物を取り除く弾抜き、外科手術後の止血などに用いられたコテである絡鉄(5本)。
 はじめ、こうした手術道具は欧米からもたらされたものであるが、欧米から輸入されたものは欧米人に比べて小さい日本人の手になじまなかった。そのため、この手術道具のように輸入したものをもとに日本の職人たちは、日本人の手になじむように道具を作り直したという。
(複製:佐倉市教育委員会蔵、原資料:順天堂大学蔵)

差上申証文之事

手術承諾書の写真

 安政2年(1855年)、上州伊勢崎町(現在の群馬県伊勢崎市)の藤兵衛が、佐藤泰然と塾衆中宛に出した手術承諾書。病人とその親類、及び病人の組合(五人組)の氏名・印や、万が一手術に失敗してもいささかも恨まないことなどが記されている。藤兵衛の治療を始めるのにあたり、順天堂が患者やその親類に治療の承諾を求めたものだろう。早い時期の手術承諾書である。(佐倉市教育委員会蔵、国立歴史民俗博物館寄託)

舶来薬品類

6種類のピンに入った薬品の写真

 佐倉順天堂で所蔵されていた薬品類。シーボルトの慣用した薬が多く、泰然の時代に輸入されたものと考えられる。黄色の液体の入った大きい瓶は「杜松子油(としょうしゆ)」で漢方薬として膀胱炎、皮膚病、消化器病などに用いる。人の顔が書かれたラベルのある瓶は「キニーネ」でマラリアの特効薬として用いられた。黄色の小瓶は「サントニン」で駆虫薬のひとつ。濃い紺色の液体が入った小瓶は「クレオソート」で身近なところでは正露丸の主成分として用いられている。小さい固形物が入った小瓶は「酒石酸」で下剤や利尿剤として用いられる。(佐倉市教育委員会蔵、国立歴史民俗博物館寄託)

(3)晩年の泰然

移住から10年かかって佐倉藩医に

 さて、このように佐倉で順天堂を開いて以降、多くの活躍を見せた泰然であるが、意外にも正式な佐倉藩医となったのは、佐倉に移住してから10年が経過した嘉永6年(1853年)のことであった。このことは、佐倉藩士の履歴をまとめた『保受録』に記されている。佐倉に移住してから10年が経過してようやく正式な佐倉藩医となった理由について、当初は佐倉に永住する意志はなくあくまでも客分として比較的自由な立場を欲したとの指摘もあるが、決定的な史料がなくはっきりとしていない。
 その後、安政5年(1858年)に現在の記念館の位置に移転。この翌年には病気を理由に隠居して、家督を佐藤舜海(尚中)に譲っている。このことは先に述べた『保受録』や藩から舜海(尚中)が家督を申し渡されたときの文書から把握することができる。しかし、家督を譲った翌年、尚中が長崎へ留学し佐倉を離れることになったため、泰然は隠居の身でありながら留守医として活躍していたようである。

横浜へ移住

 尚中が長崎から佐倉へ戻った文久2年(1862年)、泰然は佐倉を離れ横浜に移った。横浜では、ヘボン式ローマ字で有名なアメリカ人宣教師のヘボンらと交友を重ねた。泰然の5男である信五郎(のちの林董)はヘボン夫人から英語を学んでいる。そして、明治5年(1872年)泰然は横浜から東京の下谷茅町に移り住んだ後、肺炎を患い、弟子の尚中に看取られながら69歳の生涯を閉じた。

資料紹介

佐藤泰然肖像写真

佐藤泰然の肖像写真

 横浜に移住した後の晩年の泰然の姿を写したもので、写真に付属している袋に「佐藤泰然先生写真/慶応二年八月於横濱写之」とあることから、撮影時期・場所が特定される。さらに、これと同様の泰然の写真がエメェ・アンベールが蒐集したコレクションの中に含まれており、当時、横浜で活動していた下岡蓮杖によって撮影されたことがわかっている。(佐倉市教育委員会蔵、国立歴史民俗博物館寄託)

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