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佐倉市内の文学碑など

最終更新日:2008年(平成20年)4月9日

 佐倉市内にある句碑・歌碑などをご紹介します。
 なお、ここに掲載する文学碑などは、市内全ての文学碑などを網羅するものではありませんので、予めご了承ください。

  
参考:「風媒花 第14号」(文化課発行)、「フォトさくら VOL.7」(広報課発行)
      「佐倉の文学 資料集」、 「佐倉と文学」・「道々の記」・「佐倉の歴史を学ぶ資料集」(佐倉市立中央公民館発行)

     「広報さくら(昭和57年11月15日号、平成16年7月15日号)」

万葉歌碑「防人の歌」

『潮船(しおふね)の舳越(へこ)そ白波にはしくも 負うせ賜ほか思はへなくに』

場 所 : 臼井田干拓地先(印旛沼サイクリングロード沿い)
建 立 : 平成4年3月 「万葉の集いの会」
 印波郡(印旛郡)出身の防人 丈部直大麻呂(いにわのこおりはせつかべのあたいおおまろ)の歌で、日本最古の歌集「万葉集」の中で、ただ一首 印波郡(印旛郡)出身の人のものです。巻第二十にあります。

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正岡子規の句碑

『常磐木や冬されまさる城の跡』

場 所 : 佐倉城址公園内
建 立 : 昭和58年3月 佐倉市

『霜枯の佐倉見上ぐる野道かな』

場 所 : 鏑木町 小沼公園内
建 立 : 昭和57年4月 佐倉市民憲章推進協議会

 
  正岡子規は、佐倉を二度訪問し、当時の様子を文章や俳句に残しています。最初は明治24年春の「房総旅行」の際で、2度目は明治27年に開通したばかりの総武鉄道に乗って佐倉を訪れ、城跡を中心に散策しています。句碑は、その時に詠んだ句のうちの二句です。

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大江千里の歌碑

『鶯の谷より出る声なくば 春くることを誰かしらまし』

場 所 : 先崎 鷲神社境内
建 立 : 年代不詳

『下つさの伊波乃浦なみた津らしも 舟人さわぎから櫓おすな李』

場 所 : 飯野町 野鳥の森内
建 立 : 昭和56年3月 佐倉市


 大江千里(おおえのちさと)は、平安前期の歌人で、中古三十六歌仙の一人です。和歌に巧みで『古今和歌集』や『小倉百人一首』に歌が選ばれています。

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黒沼槐山の歌碑

『たづねても聞かまほしきを道のべの 小笹かくれに鶯の鳴く』

場 所 : 鏑木町 重願寺境内
建 立 : 明治36年6月 (個人建立)


 黒沼槐山は、日本西洋画会の草分けとなる浅井忠に花鳥画を教えたという、佐倉藩の御用絵師。佐倉藩主堀田正睦に仕えました。浅井忠に自分の名前から一字とった「槐庭(かいてい)」の号を与えています。碑文は、槐山の門弟青野浩が書いたものです。

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森鴎外漢詩碑

『荒園幾畝接寒沙 処々村人養緑芽 芳烈其香淡其色 菊花凋後見茶花』
*『荒園幾畝寒沙(こうえんいくぼうかんさ)に接す 処々村人(しょしょそんじん)緑芽養う 
  芳烈たる其香淡き其の色 菊花凋(しぼ)みし後茶  花を見る』

『雨気圧車人語湿 車中有客暗愁催 阿爺昔日嘗辛苦 此地単身負笈来』
*『雨気車を圧して人語湿(うるお)い 車中客(かく)有り暗に愁(うれ)いを催す
  阿爺(あや)昔日辛苦を嘗め 此地単身笈(きゅう)を負いて来(きた)る』

場 所 : 飯野町 サンセットヒルズ(旧湖畔荘)内 (2編とも)
建 立 : 昭和60年4月 佐倉市民憲章推進協議会
  森鴎外の父は、佐倉順天堂の門人であり、鴎外自身も佐倉出身の依田学海を漢学の師としました。また、鴎外の妻 登志子は、佐倉順天堂を開いた佐藤泰然の曾孫にあたります。 鴎外は明治15年と31年に佐倉を訪れています。

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吉川英治の歌碑

『萱崖(かやがけ)は母のむねにも似たるかな  たかきをわすれただぬくもれり』

場 所 : 飯野竜神橋付近
建 立 : 昭和50年6月 佐倉市 (市制20周年記念事業の一環)
  吉川英治の母 いく は、印旛郡臼井町江原(現在の佐倉市江原台)の生まれです。この歌は昭和9年に箱根で詠まれたものですが、昭和18年、佐倉に招かれ「母の生地佐倉」という講演をした際に、短冊にしたためたものです。
  英治が佐倉を訪れたことについて、彼の著作『忘れ残りの記』には、母の生家のあった印旛沼の上で佇んだり、小学校で講演したり、母の生家の菩提寺である嶺南寺の墓所に参ったりして一日を過ごしたことが記されています。

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団十郎寄進の道標(加賀清水の碑)

『天はちち地はかか様の清水かな 天保二辛卯年九月吉日 七代目団十郎敬白』

場 所 : 井野 国道296号沿い
建 立 : 天保2年9月 七代目市川団十郎


  加賀清水の名は、17世紀末、佐倉藩主大久保加賀守忠朝(おおくぼかがのかみただとも)が、江戸参府の際いつもこの清水を飲んだことによると伝えられます。後にこの近くの林屋という茶屋でこの清水がふるまわれ、成田街道の名物として評判を集めました。林屋のあったところに、歌舞伎役者七代目市川団十郎の寄進した道標があり、その起源を今に伝えています。

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伝承 桔梗塚

『花もなく茂れる草の桔梗こそ いつのとき世に花のさくらむ』

場 所 : 将門町 桔梗塚
建 立 : 昭和56年3月 佐倉市

  里の伝えによれば、承平の昔、平将門がこの地に居を築き、愛妾「桔梗の前」と同居したと言われています。そして、「桔梗の前」が敵将の藤原秀郷と謀り、将門を殺したため、この地に桔梗が咲かないという伝説を生みました。

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(伝承)勝間田の池の歌碑

  池の中程に突き出た半島状の地に厳島神社が祀られています。勝間田の池には、その昔、西行法師が来訪したとの伝承があり、その時に詠んだと伝えられる歌碑が建てられています。この池には地元の人によって立てられた歌碑もあり、この池が古くから手厚く保護されてきたことがうかがえます。

(正面)西行法師  『みづなしと聞きてふりにし勝間田の 池あらたむるさみだれのころ』

  西行法師は、平安末期の代表的歌人です。この勝間田の池には、西行法師が立ち寄ったとの伝承があり、<<二股の葦>>の伝説が伝えられています。西行法師がこの地を行脚し、お昼にしようとしましたが箸がなかったので、近くにいた百姓に「箸を一膳貸してください」と頼んだところ、百姓は「お貸しする箸はありません。あなたの後の枝でも折っておあがりなさい」というので、西行はしかたなく近くの葦を折って箸にしました。そして食べおわったときにこの一首をよみ、葦の箸をそこにさして立ち去りました。やがてその箸から根が出て立派な二股葦になったそうで、それ以降二股葦が生い茂るようになったということです。

(右面)寂蓮法師  『勝間田の池のこころは空しくて こほりもみづも名のみなりけり』

(左面)為相卿   『尋来てかつみるままに勝間田の はなの蔭にぞ淋しかりけり』

  寂蓮法師は、鎌倉初期の歌人です。為相卿は、鎌倉末期の歌人で、和歌の師範家のひとつである冷泉家の祖となった人物です。

場 所 : 下勝田 勝間田の池
建 立 : 年代不詳

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『勝間田の池の桜はさくらにてくもとおもえるみずだにもなし』

場 所 : 下勝田 勝間田の池
建 立 : 天保8年(1837年) 下勝田村有志建立

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田村柚実歌碑

『日に幾度門辺に出でて仰ぎつつ  いよよ親しき冬の青空』(田村柚実  水野葉船謹書)

場 所 : 宮前 東福寺境内
建 立 : 昭和7年11月 (友人達による建立)


  田村柚実は若山牧水に師事した歌人で、歌は歌集「柚実」の作品です。柚実は、佐倉市本町に生まれ、大正7年佐倉中学校卒業後、大正9年千葉県師範学校を卒業して教員となり、作文教育にとくに力をいれました。

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