佐倉市の文化財-建造物

更新日:2022年08月31日

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旧堀田家住宅<きゅう・ほったけじゅうたく>

和風庭園の奥に建つ2階建ての白い外壁の旧堀田家住宅の写真

 旧堀田邸は、最後の佐倉藩主堀田正倫<ほった・まさとも>の別邸として、明治23年(1890年)7月に竣工したものです。現存している建物には、主屋・土蔵・門番小屋・茅門があります。 主屋には消失している部分もありますが、その間取りに近世武家住宅の形式を引き継ぎつつ、近代の新しい生活に併せた部分もみることができ、明治期における上級和風住宅の特色を良く残しています。このような明治期における和風建築と庭園が共に残された旧大名家邸宅の遺例は、全国的にも珍しいものです。

〔平成18年(2006年)7月5日 国指定重要文化財(建造物)〕

旧河原家住宅 <きゅう かわら- け じゅうたく> (宮小路町)

門の両脇に木々が植えられた旧河原家住宅の入り口を写した写真

 旧河原家住宅は、建築年代は不明ですが、建築様式などから18世紀後半と推定され、佐倉に残されている武家屋敷の中では最も古いものと考えられています
 平成元年(1989年)に解体した上で移築復原整備が行われ、この時に失われていた接客部分が、弘化2年(1845年)の「河原喜右衛門江屋敷相渡帳」などの調査結果に基づいて復元されました。

 〔昭和60年(1985年)3月8日県指定有形文化財〕

旧但馬家住宅 <きゅう たじま-け じゅうたく> (宮小路町)

3段の階段上に入口の門がある木々に囲われた旧但馬家住宅の写真

 旧但馬家住宅は、19世紀前半の建築で、河内十郎左衛門屋敷地ののち、天保年間(1830年~44年)以後は100石取の井口郡内がこの屋敷に居住していたことが記録に見えます。 明治5年(1872年)の時点では、旧禄高20人扶持の岡田陽助屋敷(佐倉城外45番屋敷)でしたが、明治8年(1875年)に旧佐倉藩士の但馬氏がこの屋敷を購入しました。
 平成2年(1990年)には佐倉市が復原整備し、この時に失われていた南側の土間部分を往時の状態に戻しています。

 〔平成元年(1989年)3月31日市指定有形文化財〕

旧武居家住宅 <きゅう たけい-け じゅうたく> (宮小路町)

入口右に石碑が建ち、右側の門の奥に旧武居家住宅の母屋が見える写真

 旧武居家住宅の建築年代ははっきりとしませんが、建築様式等から江戸時代後半に建てられたものと思われます。 この住宅がもとあった屋敷地は、斉藤氏屋敷ののち、文政5年(1822年)年前後には依田平内、その後、服部用太郎が居住し、万延元年(1860年)以前から明治時代初期には、田島伝左衛門・田島育太郎の屋敷(佐倉城外54番屋敷)でした。 その後数人の手を経て、明治33年(1900年)に武居氏がこの住宅を取得しています。
 佐倉市では平成8年度にこの住宅を移築復原しました。

旧川崎銀行佐倉支店 <きゅう かわさき-ぎんこう さくら-してん> (新町)

道路沿いに建つ9つの窓と中央の入り口から明かりが見える旧川崎銀行佐倉支店の全体の写真

 大正7年(1918年)の建築です。昭和12年(1937年)には佐倉町に売却されて町役場となり、昭和29年(1954年)の市制施行により、佐倉市役所となりました。 昭和46年(1971年)には公民館として、その後、昭和51年(1976年)からは市立図書館、昭和61年(1986年)からは佐倉新町資料館として利用され、平成6年(1994年)11月からは市立美術館のエントランスホールの役目を持っています。

 〔平成3年(1991年)2月15日県指定文化財〕

佐倉高等学校記念館 <さくら-こうとうがっこう きねんかん> (鍋山町)

内部の見学はできません

 県立佐倉高等学校は、寛政4年(1792年)に佐倉藩主 堀田正順<ほった・まさあり>が開設した藩校佐倉学問所の流れを汲みます。佐倉学問所は文化2年(1805年)に温故堂と改称され、天保7年(1836年)には成徳書院に拡充改組されました。 明治4年(1871年)になると印旛県立学校となり、明治6年(1873年)には私立中学の鹿山精舎として開校し、明治21年(1888年)に佐倉集成学校として開校、明治32年(1899年)から県立に移管されています。
 この記念館は旧佐倉藩主 堀田正倫<ほった・まさとも>の寄付により明治43年(1910年)に建築されました。全国的にも数少ない明治期の洋風木造校舎として、市内では初めて国の登録有形文化財に登録されました。
 明治期の洋風建築の優れたデザインは、県内で唯一、現在も校舎として使われている明治時代の木造建築です。建物は、ほぼ左右対称の構成で、玄関の脇にあるドーム屋根をもつ小さな塔が印象的です。連続して配置されている縦長の上げ下げ窓や屋根の飾りなど、随所に高いデザイン性が感じられ、明治時代後期の洋風建築の特徴をよく残しています。当初は学校の本館として使用されていましたが、昭和50年(1075年)に改修工事が行われ、現在は主に管理棟として使われています。

 〔平成17年(2005年)7月12日国登録有形文化財〕

松林寺本堂 <しょうりんじ-ほんどう> (弥勒町)

 弥勒町にある玉宝山松林寺は阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の寺院で、慶長15年(1610年)から寛永10年(1633年)まで佐倉藩主だった土井利勝により創建されました。 簡素で端正な造りで、従来の佐倉地方の建造物には見られない数々の特徴があり、近畿地方ないし江戸からの工匠の手になる建造物と考えられます。
 三葉葵紋を扉の内側に配した厨子に安置されている秘仏の千手観音は、2代将軍 徳川秀忠の持仏を秀忠の乳母 春日局が拝領し、それを土井利勝が譲り受けたものと伝えられています。

 〔昭和57年(1982年)4月6日県指定有形文化財〕

将門山大明神鳥居 <まさかどやま-だいみょうじん-とりい> (大佐倉)

 この鳥居は、承応3年(1654年)11月に当時の佐倉藩主であった堀田正信(ほったまさのぶ)が寄進したものであることが左右の柱に刻まれた銘よりわかります。高さは329センチメートルの明神鳥居で、貫の左右の先端部分が柱の外側で欠損しています。

 左右の柱には次の銘が刻まれています。

  • (右)
    • 奉寄進石之華表
    • 将門山大明神
    • 承応甲午天十一月吉日
  • (左)
    • 佐倉之城主従五位下
    • 総州印旛郡
    • 堀田上野介紀朝臣正信

 将門神社についての創建は不詳ですが、千葉一族の崇敬を受けていたと考えられます。本来、将門神社と口之宮神社とは別のものでしたが、明治以降合祀され、現在に至っています。

 〔昭和52年(1977年)7月13日市指定有形文化財〕

密蔵院薬師堂 <みつぞういん-やくしどう> (寺崎)

 日光山密蔵院は、阿弥陀如来を本尊とする真言宗豊山派の寺院です。 鏑木町の大聖院の末寺でした。 境内の高台にあり、寛永年間(1624年から44年)に鹿島川の薬師淵に漂着していたのを引き上げたとされる薬師瑠璃光如来を安置している堂が薬師堂です。 現在鉄板葺きに改修されている入母屋造の屋根は、本来草葺きでした。
 建築年代は明らかではありませんが、各部に付けられた彫刻や、若葉や波の文様を彫り込んだ虹梁<こうりょう・やや反りをもたせた梁の一種>などの技法の特徴により、18世紀初頭(宝永年間、1704年~11年頃)に建てられたと推測されます。

 〔昭和60年(1985年)9月26日市指定有形文化財〕

鷲神社本殿 <わしじんじゃ-ほんでん> (先崎)

 神社の創建年代は不明ですが、享保7年(1722年)成立の『佐倉風土記』には、『祭神は明らかでない。承平7年(937年)7月7日に朱雀天皇の勅命により慈恵僧正が創建し平将門の悪行を取り除いた。行基菩薩作の釈迦如来像を安置し鷲峰の名に因んで鷲宮と呼ぶ。応永年間(1394年~1428年)の火災で一切の記録が失われた。天日鷲命<あめのひわしのみこと>を祭るのではないか』と記しています。
 現在の本殿は正覚寺照永の時代、天保15年(弘化元年、1844年)の建立です。 本殿の台座には、建立資金を奉納した人名が刻まれていて、先崎村以外の近隣村々の人名も多く見られます。

 〔昭和53年(1978年)7月26日市指定有形文化財〕

鷲神社鳥居 <わしじんじゃ-とりい> (先崎)

 鷲神社の石鳥居は、江戸時代中期の寛文13年(延宝元年、1673年)に造立された、明神鳥居に分類される鳥居です。 鷲神社の別当であった真言宗鷲王山正覚寺鷲福院の住職が、江戸深川の石屋に注文したことが、刻まれた銘文から分かります。

 〔昭和53年(1978年)7月26日市指定有形文化財〕

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