佐倉の歴史

更新日:2023年01月31日

ページ番号: 2523

旧石器から弥生時代の佐倉

旧石器時代

 氷河期と間氷期を繰り返していた時代で、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣を狩猟の対象としていました。人類の誕生は600万年前に遡ると言われ、日本にも4万年前には大陸から人が渡ってきたようです。この頃の人々は、石や骨で作った道具を使って狩りをして歩くという遊動的な生活をしていました。

 市内では、79か所から1万点以上の石器が見つかっており、最古の石器は約3万5千年前に遡ります。石器には、信州、神津島の黒曜石(こくようせき)に代表される遠隔地の石材が使われており、製作技法に地域差があります。石器のほかに、焚火をした痕跡(炉跡や木炭の分布)も見つかっています。

 高岡大山(たかおかおおやま)遺跡や間野台(まのだい)貝塚では北日本の製作技法を用いた石器が、内田端山越(うちだはやまこし)遺跡では縄文時代への移行期に使われた石器がそれぞれ見つかっています。

縄文時代

大きな丸い形の中に小さな穴がたくさんある吉見台遺跡の大型竪穴建物跡写真

画像:【吉見台遺跡の大型竪穴建物跡】

 長い氷河期が終わり、動植物相が旧石器時代とは大きく変わりました。約16000年前から2500年前まで続きました。人は環境変化に適応しながら、多くの道具を発明しました。とりわけ土器の発明により食料の選択肢が飛躍的に増え、定住生活を可能としました。

丸い穴がいくつもある井野長割遺跡の香炉形土器の写真

画像:【井野長割遺跡の香炉形土器】

 市内では、印旛沼周辺とそれに注ぐ河川沿いに遺跡が濃密に分布しています。市内最古の土器が見つかった岩富漆谷津(いわとみうるしやつ)遺跡、印旛沼が海だった頃の様子を物語る上座(じょうざ)貝塚(県史跡)や間野台(まのだい)貝塚、漁労集団が住んでいたとみられる吉見(よしみ)稲荷山(いなりやま)遺跡、環状盛土を伴う井野長割(いのながわり)遺跡(国史跡)、200軒以上もの竪穴住居跡が見つかった宮内井戸作(みやうちいどさく)遺跡、長軸19メートルもの巨大な竪穴建物(臼井南中学校内に保存)や700点もの大量の土偶を有する吉見台(よしみだい)遺跡、夥しい量の土器が散っている遠部台(とおべだい)遺跡など、注目すべき遺跡や遺物が多数あります。

弥生時代

 大陸や朝鮮半島から稲作農耕や青銅器、鉄器が伝わった時代です。九州地方に約2,800年前に伝わった稲作農耕は約2,400年前に関東地方に定着しますが、畑作農耕や狩猟・採集もおこなわれていました。

 市内では、岩名天神前(いわなてんじんまえ)遺跡で紀元前1世紀頃の「再葬墓(さいそうぼ)」(白骨化した骨を壺に入れて再び土中に埋め戻す墓)が見つかっています。その後、紀元2世紀頃までの間、印旛沼やそこに注ぐ河川を臨む台地上に大規模な村が営まれます。江原台(えばらだい)遺跡や臼井南(うすいみなみ)遺跡群、間野台(まのだい)遺跡、六崎大崎台(むつざきおおさきだい)遺跡などは、その代表例です。六崎大崎台遺跡では村を囲む深い濠がめぐり、当時の社会的な緊張関係を物語っています。また、谷を挟んで向かいにある寺崎向原(てらざきむかいはら)遺跡は、六崎大崎台遺跡の住人達の墓域と考えられています。

 印旛地域には、輪積み痕跡を残しつつ縄文が施された特徴的な土器が分布しています。

古墳・古代の佐倉

古墳時代

 弥生時代の終わりには、各地に墳丘のある墓が現れましたが、3世紀半ばになるとその形態などが画一的になりました。その後7世紀末までを古墳時代といいます。

 古墳は、前方後円墳(帆立貝形も含む。)・円墳、前方後方墳・方墳に分類されます。前方後円墳が造られた時期を前期(3世紀後半~4世紀前半)・中期(4世紀末~5世紀後半)・後期(5世紀末~6世紀末)に分け、造られなくなった終末期(7世紀)は、飛鳥時代にあたります。

 佐倉市内で明確に前期古墳と判断できるのは、前方後方墳である飯郷作1・2号墳(全長25メートル、30メートル)です。近畿との関係が強い首長は、基本的に前方後円墳を採用しますが、前方後方墳は東海地方以東に多く見られます。

 5世紀初め、近畿と吉備(岡山県・広島県東部)では規模(300メートル級)・形態が同等の前方後円墳が造られ、同盟関係にありました。毛野(群馬県・栃木県南部)などの地域ではそれに準じた規模のものが造られ、近畿との結びつきがうかがわれます。

 5世紀前半から半ばには最大の前方後円墳である大山古墳(大阪府堺市、伝仁徳天皇陵、全長486メートル)が造られ、さらに5世紀後半になると、全長150メートル超の前方後円墳は近畿以外では見られなくなります。これは、大王を中心としたヤマト政権の支配体制の強化の進展と思われます。

 佐倉市内の前方後円墳は、山崎ひょうたん塚古墳(全長40メートル)、飯塚15号墳(同38メートル)、馬渡姫宮1号墳(同23メートル)などがあります。龍角寺古墳群(栄町)を造営した印波国造より下位であるもの、佐倉周辺の首長がヤマト政権の秩序の中にあったことを物語っています。

古代(飛鳥~平安時代末期)

 日本史における「古代」とは、推古天皇即位(593年)の頃から始まり、平氏政権の成立(1160年)をもって終わりを告げます。その初期の飛鳥時代は、前述した古墳時代終末期(7世紀)にあたります。

 7世紀以降、中国の律令制度を導入し、天皇を中心とした中央集権体制が整備され始めます。律令制と公地公民制に基づく中央集権的な統治は、大宝律令の制定(701年)、平城遷都(710年)を経て確立しました。このような統治には文字による情報伝達が不可欠であり、佐倉市内でも高岡遺跡群等から文字が記された土器(墨書土器)出土しています。

 有力氏族は、これまでの古墳に代わって寺院を建立するようになります。龍角寺(7世紀半ば、栄町)はその代表的な寺院ですが、長熊廃寺(8世紀初め)も市内の古代寺院の跡として知られており、仏教が佐倉周辺に伝わっていたことを示しています。

 9世紀半ばになると東国では大災害が頻発しました。出羽国地震(850年)、富士山貞観噴火(864)、陸奥国大地震・大津波(869年)、下総・上総・安房国大地震(886年)などが社会に不安が広がりました。さらに下総国の俘囚の乱(875年)や僦馬の党の蜂起(889年)などの騒乱によって治安が悪化し、やがて関東全域を巻き込んだ平将門の乱(935年~940年)が起こりました。発生期の「武士」が騒乱を起こし、「武士」が鎮圧する状況を呈するようになります。

 10世紀になると班田収受制の崩壊が進む中、現在の佐倉市域でも「印東庄」(佐倉・酒々井・富里)、「白井庄」(佐倉・八街・千葉)といった荘園が形成され、発展しました。

中世・近世の佐倉

中世(平安時代末期~安土桃山時代)

樹々に覆われた本佐倉城跡を空撮した写真

画像:【本佐倉城跡空撮】

 「中世」とは、どのような時代であったと位置づけられるでしょうか?時代区分でいうと平安時代末期(1160年頃)から江戸時代の始まり(1603年)までを「中世」とするのが一般的です。この時代は、軍事を担った武士たちが勢力を伸ばし、離散集合を繰り返しながら、全国的な統一政権の樹立へと向かっていた時代と位置づけることができるかもしれません。
 中世の佐倉もその例に漏れず、武士の支配・分裂を軸にしながら時代を見ることができます。鎌倉幕府の成立にともない、佐倉市域の荘園を支配していた在地領主に代わって千葉氏が勢力を伸ばし、佐倉市域は千葉氏の支配下に置かれました。室町時代、関東全域を巻き込んだ「享徳の乱」が、享徳三年(1454年)におこると千葉氏は分裂し、戦国の動乱へと巻き込まれていきます。

上杉謙信臼井城城攻めの図

画像:【上杉謙信臼井城城攻めの図(『成田名所図会』より)】

 この動乱の中、千葉氏はその本拠を佐倉に移し本佐倉城を築きました。臼井城では二度の大きな合戦があり、16世紀中頃に臼井城主となった千葉氏重臣の原氏が小田原の北条氏に従いながら勢力を伸ばしました。しかし、戦国時代末期、小田原北条氏が滅ぶと佐倉を支配していた領主も大きく様変わりすることになります。つまり、北条氏に従っていた千葉氏、原氏は没落し、代わって関東地方を支配することになった徳川家康の家臣や一門が佐倉を治めることとなったのです。その後、徳川家の家臣団が整理されていく中で、中世の城郭は姿を消し「近世」という新たな時代を迎えることとなります。

近世(江戸時代)

佐倉城跡と近隣の建物などを空撮した写真

画像:【佐倉城跡空撮】

 日本の「近世」とは、簡単に言ってしまえば江戸時代(1603年~1867年)のことを指します。江戸の将軍・幕府を中心として、藩が各地域を治める幕藩体制下にあったこの時代、佐倉市域で、藩の中心となったのは佐倉城です。慶長15年(1610年)、土井利勝が佐倉の領主となり、その翌年から佐倉城の築城が開始され、7年の歳月をかけて完成しました。同時に城下町も整備され、佐倉城は江戸を守る要衝の一つとして数えられました。
 その後、有力な譜代大名が佐倉藩主に任ぜられ、堀田氏がその多くを輩出しました。寛永19年(1642年)、正盛が、堀田氏の中ではじめて藩主となりました。その子の正信は、幕政批判などをしたため領地を没収され、その後、松平氏、大久保氏、戸田氏、稲葉氏らが藩主に任ぜられました。

堀田正睦の肖像写真

画像:【堀田正睦肖像】

 延享3年(1746年)、正盛のひ孫の正亮(まさすけ)が山形から佐倉へ入封した後は、明治維新まで堀田氏が佐倉藩主となっています。江戸時代末期、堀田正睦(まさよし)は、幕閣として2度老中を務め、藩主として様々な改革を行いました。特に教育に力を入れ、藩校の成徳書院を拡充し、蘭学を中心とする洋学を積極的に取り入れました。この頃、天保14年(1843年)、江戸で活躍していた蘭方医の佐藤泰然が佐倉に蘭医学塾兼診療所の「順天堂」を開き、最先端の医学教育とその実践を行いました。正睦の後を継いだのは、正倫(まさとも)で、彼が最後の佐倉藩主となりました。明治維新後、陸軍歩兵連隊が佐倉におかれることになると、佐倉城の建物のほとんどが撤去され、次の時代への一歩が踏み出されました。

近代・現代

近代(明治~昭和前半)

 近代とは、一般に明治維新から第二次世界大戦の終結までのおよそ80年間を指します。

 明治維新を迎えた日本は、西欧の革新的技術の導入によって、軍事をはじめとする産業を奨励するとともに、富国強兵に努めました。内政面では、軍事、税制において、徴兵令や地租改正といった抜本的な構造改革を実施しました。対外的には、徳川政権期に結ばれた不平等条約の改正を諸外国と交渉し、また、日清・日露戦争といった対外戦争に勝利するなかで西欧諸国と互角の地位に登りつめました。

跳下台を用いた連隊の訓練風景の写真

画像:【跳下台を用いた連隊の訓練風景】

 佐倉では、廃藩置県により佐倉藩が廃止され、佐倉県が設置されました。また、旧体制の象徴とみなされた佐倉城が取り壊され、同じ場所に近代的な装備を整えた陸軍の兵営が設置されました。その地では、国民皆兵を掲げる明治政府の方針によって、千葉県内外から多くの若者が厳しい調練に従事し、戦場に赴きました。有名な部隊としては、日清戦争での旅順攻防に従軍した歩兵第2連隊や、第二次世界大戦のレイテ戦で悲劇的な最後を迎えた歩兵第57連隊を挙げることができます。

 当時の佐倉は、兵隊を抱える連隊の街としてにぎわいをみせていました。現在の新町通りから田町の歴博入口にかけての成田街道筋には、飲食店や日用雑貨を扱う商店をはじめ、写真店、軍服仕立ての店など、連隊向けの商店がたくさんありました。
 また、佐倉連隊兵営跡地(現在の国立歴史民俗博物館敷地内)で実施された発掘調査では、連隊時代につくられた建物の基礎部や、兵隊が調練用に掘った塹壕跡などがみつかっています。

現代(昭和後半~令和)

 現代とは、おおむね第二次世界大戦後から現在までを指します。

 大きな戦争を終えた佐倉は、連隊の街から歴史に根差した色彩豊かな街として発展してきました。

 昭和28(1953)年の町村合併促進法を受け、佐倉町、臼井町、志津村、根郷村、弥富村、和田村が合併し、昭和29(1954)年3月31日に市制が施行されました。この時期の全国的な市町村合併を「昭和の大合併」といい、新制佐倉市の人口は、3万5196 人になりました。昭和30(1955)年には、旭村(現四街道市)から馬渡が編入、昭和32(1957)年には、四街道町(現四街道市)から畔田、生谷、吉見、飯重、羽鳥が編入され、私たちの知る佐倉市になりました。現在、佐倉には、17万を超える方々が住んでいます。

 現在の佐倉市は、佐倉、臼井、志津、根郷、千代田、和田、弥富という七つの地区に大別され、面積は、103.69平方キロメートルで、だいたい東京ディズニーランド約203個分の広さを誇ります。市の木であるさくら、市の花である花菖蒲は、市民の公募によって選ばれました。佐倉城本丸跡の勇壮なさくらや、城址公園にたおやかに咲く菖蒲、ふるさと広場のチューリップや向日葵、コスモスなど、季節ごとに自然の美に囲まれたカラフルな大地が佐倉の特色です。また、佐倉城跡は、城址公園として整備され、佐倉連隊の置かれた地には、国立歴史民俗博物館が建てられています。その他にも、武家屋敷や旧堀田邸、佐倉順天堂記念館など、歴史の舞台となった場所は、一般公開されています。まさに、明日へ歴史を大切に伝える街が佐倉市なのです。

参考文献

  • 佐倉市史編さん委員会編『佐倉市史』巻1~4、考古編
  • 佐倉市総務部総務課市史編さん室編『ふるさと歴史読本 原始・古代の佐倉』佐倉市、1999年
  • 佐倉市総務部総務課市史編さん室編『ふるさと歴史読本 中世の佐倉』佐倉市、2000年
  • 佐倉市総務部総務課市史編さん室編『ふるさと歴史読本 近世の佐倉』佐倉市、1998年
  • 佐倉市総務部総務課市史編さん室編『ふるさと歴史読本 近代の佐倉』佐倉市、2001年
  • 佐倉市総務部総務課市史編さん室編『佐倉市市制50周年記念写真集 写真にみる佐倉』、佐倉市、2004年
  • 国立歴史民俗博物館展示解説図録『佐倉連隊にみる戦争の時代』国立歴史民俗博物館、2006年

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