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佐倉順天堂に関わった人物たち

[2018年2月6日]

ID:14730

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佐倉順天堂・佐藤家の人々と泰然の息子たち

佐藤 泰然(さとう たいぜん)

順天堂の創立者、初代堂主

佐藤泰然

文化元年(1804)~明治5年(1872)
 武蔵国(現神奈川県)川崎にて佐藤藤佐(とうすけ)の子として生まれる。天保6年(1835)より長崎に留学し3年間オランダ医学を学ぶ。その後天保9年(1838)、江戸日本橋薬研堀に蘭医学塾「和田塾」を開く。天保14年(1843)、佐倉へ移住し「順天堂」を開いた。蛮社の獄などの江戸の情勢などもあってか、佐倉藩重臣の渡辺弥一兵衛の誘いを受けて移住したともいう。藩内での牛痘普及に尽力し、嘉永6年(1853)に藩の医師として召し抱えられた。その後、安政6年(1859)に家督を養子の尚中に譲り、文久2年(1862)に隠居し横浜へ移住。写真は、慶応2年(1866)に横浜で撮影された晩年のものである。明治5年(1872)、肺炎のため死去。享年69歳。

佐藤 尚中(さとう たかなか)

順天堂二代目堂主、東京に順天堂医院を開く

佐藤尚中

文政10年(1827)~明治15年(1882)
 下総小見川藩医山口甫仙(ほせん)の次男として生まれる。天保13年(1842)に和田塾に入門し、嘉永6年(1853)に泰然の養子となる。安政6年(1859)、泰然の後継者となり2代目堂主となる。松本良順の勧めもあり、翌年より長崎へ留学しオランダ軍医ポンペのもとで研鑽を更に積む。文久2年(1862)に佐倉に戻り、長崎の経験を活かし慶応3年(1867)には佐倉養生所を開設する。維新後、明治2年(1869)には大学東校(東大医学部前身)の最高責任者となる。職を辞した後には、東京に順天堂医院を開く。これが後の順天堂大学となる。明治15年(1882)、死去。享年56歳。

佐藤 進(さとう すすむ)

順天堂三代目堂主、アジア人として初めて医学博士に

佐藤進

弘化2年(1845)~大正10年(1921)
 常陸国(茨城県)太田の酒造業、高和清兵衛の長男として生まれた。尚中に学び、慶応3年(1866)に佐藤尚中の養子となった。同4年(1867)に戊辰戦争が起こると、新政府軍のもと戦地で治療にあたる。明治2年(1869)にドイツに留学し、同7年ベルリン大学医学部の全過程を修了し医学博士号を得た。同8年帰国後、尚中と共に順天堂の経営にあたり外科を担当した。同10年の西南戦争の際には大阪陸軍病院で治療にあたった。同22年の大隈重信外務大臣の受難や、同28年日清戦争講和全権大使として来日中に狙撃され負傷した李鴻章に対し、最新の医療をもって治療した。晩年は、妻である佐藤志津の遺志を継いで女子美術学校の校長になり、女子教育にも尽力した。

佐藤 志津(さとう しづ)

女子美術学校を再建

佐藤志津

嘉永4年(1851)~大正8年(1919)
 尚中の長女として母の実家である麻生(現茨城県行方市)で生まれ、尚中が泰然の養子となった後に、佐倉へ移住。元治元年(1864)、堀田家に見習いとして入り正睦の息女・松姫のお相手として御殿に上がっている。その後、慶応3年(1867)に進と結婚。明治33年(1900)、横井玉子らによって女性の教育者育成を目指した私立女子美術学校が設立されるが、当時は社会的に女子教育に対する意識が低く、経営はたちまち行き詰ってしまう。志津は、その学校の経営を引き継いで欲しいと依頼があり、明治35年(1902)に校主、続いて校長となり学校を積極的に運営していった。大正4年(1915)に津田梅子らとともに、女子教育功労者として勲六等宝冠章を受ける。大正8年(1919)3月に亡くなるが、その意志を継いだ夫の進が、第三代の校長に就任している。

松本 良順(まつもと りょうじゅん)

泰然次男、幕府奥医師から陸軍軍医総監に

松本良順

天保3年(1832)~明治40年(1907)
 泰然の次男として江戸で生まれる。嘉永2年(1849)、泰然と交流の深かった幕府奥医師松本良甫(りょうほ)の婿となり松本家を継ぐ。安政4年(1857)、幕命により長崎に留学し、ポンペに蘭医学を学ぶ。ポンペの医学校建設の志に共鳴し、文久元年(1861)、長崎養生所(長崎大学医学部の前身)を開設し、その頭取となる。翌年、江戸への帰還を幕府より命ぜられ文久3年(1863)、幕府医学所頭取となる。戊辰戦争では幕府軍の軍医となり長岡、会津を転戦する。横浜で捕えられるが、のちに許され、明治6年(1873)に初代陸軍軍医総監となる。明治18年(1885)、大磯海水浴場を開設し海水浴が健康に良いことを説いた。明治40年(1907)、死去。享年76歳。

林 董(はやし ただす)

泰然五男、明治期の外交を支える

嘉永3年(1850)~大正2年(1913)

 佐藤泰然の五男として佐倉市の本町で生まれ、文久2年(1862)泰然とともに横浜に移り、幕府医官の林洞海の養子となる。横浜で董は、アメリカ人宣教師のヘボン(ヘボン式ローマ字のもとを作る)の妻クララの英語塾に入門、さらに幕府派遣のイギリス留学生として今のロンドン大学で学んだ。イギリスで勉学に励む中、戊辰戦争が勃発。急ぎ帰国し、旧幕府側につき義理の兄弟である榎本武揚とともに函館の五稜郭に籠り最後まで戦った。 

 官軍に捕えられたが、後に許され岩倉具視らの欧米使節団に同行するなど、外交について学んでいく。その後、外務次官・ロシア公使を歴任し、明治35年(1902)、イギリス公使を務めていた董は、全権を委任されて日英同盟を締結した。その後は、外務大臣・逓信大臣を歴任し、明治40年(1907)、伯爵位を授けられた。

 

順天堂で学んだ主な門人たち

関 寛斎(せき かんさい)

地域医療と社会奉仕に身をささげる

関寛斎

文政13年(1830)~大正元年(1911)
 上総国東中(千葉県東金市)の農家の長男として生まれた。儒学者関俊輔の養子となり、順天堂に入門し泰然のもとで学ぶ。26歳の時、銚子で開業するが、万延元年(1860)に醤油醸造業を営む豪商濱口梧陵の支援を受け長崎に遊学しポンペに師事した。その後、徳島藩に招かれ侍医となる。戊辰戦争が勃発すると新政府側の奥羽出張病院頭取として負傷者の治療にあたった。その後、徳島に戻り徳島藩医学校を創立、明治6年(1873)、禄籍を奉還し町医者として、以降30年間地域医療のために尽力する。貧しい人々には無償で治療を施すなど、地域の人々から厚く慕われた。その後、北海道の開拓を志し、明治35年(1902)、72歳にして北海道陸別町の開拓事業を行った。徳富蘆花を通じてトルストイの思想に傾倒し、理想的な農村建設をこの地で目指したが果たせず、大正元年(1912)自ら命を絶ち波乱の生涯を閉じた。

長谷川 泰(はせがわ たい/やすし)

済生学舎(現日本医科大学)を開設し医師養成に尽力

天保13年(1842)~明治45年(1911)

 越後国(新潟県)長岡の漢方医の長男として生まれた。文久2年(1862)、順天堂に入門して泰然、尚中に学び、慶応3年(1867)、江戸で松本良順の西洋医学所でも学んだ。翌年の戊辰戦争では、長岡藩の藩医として従軍し、傷を負った長岡藩家老河井継之助の最期を看取った。

 明治2年(1869)、順天堂で共に学んだ相良元貞の推薦で、大学東校(東大医学部の前身)の教壇に立った。この時の大学大博士(校長)は尚中である。当時医師になるためには、東京医学校(東大医学部の前身)を卒業して資格を得るか、医術開業試験に合格するしかなかった。同9年、医術開業試験の受験のための医学校「済生学舎」(日本医科大学の前身)を本郷元町の自宅に開校し、医師教育に努めた。同36年の廃校まで9600人もの合格者を出し、その数は当時の西洋医師の半数以上におよぶ。東京女子医科大学創設者の吉岡弥生や野口英世らも卒業生である。また、後藤新平の後任として内務省衛生局長として、下水道法制定に力を尽くした。

佐藤 舜海(さとう しゅんかい)

佐倉順天堂三代目院長、佐倉の近代医療を担う

佐藤瞬海

天保14年(1843)~明治44年(1911)
佐倉藩士岡本千春の長男として生まれた。佐藤泰然に学び、泰然隠居後は尚中に師事した。明治2年(1869)、尚中が明治政府からの要請で上京した後は、佐倉の順天堂の経営にあたった。同7年、尚中は道庵を養子にして家督を譲り隠居し、道庵は尚中の旧名と同じ「佐藤舜海」を名乗った。同10年に起こった西南戦争の時には、大阪に置かれた陸軍臨時病院で、軍医として治療にあたった。同19年には、佐倉営所病院病院長となり、日清・日露戦争にも従軍し、陸軍一等軍医正に任じられた。また、佐倉の順天堂を「順天堂病院」として経営し、発展させた。舜海の還暦を祝って門人たちが建てた頌徳碑が、佐倉順天堂記念館裏の本町街区公園に残っている。

佐藤 恒二(さとう つねじ)

佐倉順天堂四代目院長、長きにわたり病院を支える

佐藤恒二

明治11年(1878)~昭和27年(1952) 
 千葉県判事の太田拡の次男として、長野県小諸で生まれた。千葉第一高等学校医学部(千葉大医学部の前身)で学ぶ。明治33年(1900)、第三代目佐倉順天堂医院長である佐藤舜海の三女と婚姻し、婿養子となる。翌年ドイツへ留学し、博士号を取得。明治44年(1911)に、舜海が亡くなると第四代目院長となる。約2千坪の病院敷地内には庭園も整備され、大正12年(1923)には建物を洋風に改築。また国鉄佐倉駅近くには分院も設けられるなど順調な病院経営に当たっていた。また、千葉医専臨床研究生の育成に尽力するなど精力的な活動を行う。共に病院を経営していた長男の郁哉が早逝したため、戦中戦後の混乱期を迎え危機に立たされた佐倉順天堂を長年にわたって支え続けた。昭和26年(1951)、恒二所蔵の重要蔵書が千葉大学医学部へ移譲され、翌年、心筋梗塞により死去。物外と号し漢詩や書を愛する文化人でもあった。

濱野 昇(はまの のぼる)

公衆衛生の普及と地域医療の発展に心血を注ぐ

安政元年(1854)~大正9年(1920) 

 佐倉藩に仕える医師の子と生まれる。尚中に師事し、西洋医学を学んだ。明治初め、大学東校に入学し勉強に励んだ。明治10年(1877)の西南戦争にも従軍。戦後、佐倉に戻り明治12年に済生病院を佐倉宮小路に開設した。

 明治16年には再び鹿児島に赴き、鹿児島医学校校長・鹿児島県地方衛生会委員に就任。以後、明治18年に佐倉に戻るまで、衛生行政に関わった。帰省後は、病院長として患者の治療にあたりながら、明治24年の大日本私立衛生会佐倉支会の結成に尽力し、地域の衛生状態の改善のために活動を広げた。北里柴三郎、森鴎外など著名な人物を招き講演会を開催し、一般の人々に衛生知識の普及につとめた。また、明治25年に天然痘が大流行した際には、無料で種痘を実施したことが知られている。

 また、千葉県議会議員、佐倉町町会議員、衆議院議員などをつとめ、医学教育の重要性を説いた。他にも台湾の医療の普及に協力したり、学校に学校医制度を導入させたりと地域医療の発展、日本の医療の普及に心血を注いだ。

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