近代に活躍した佐倉ゆかりの人物たち

更新日:2024年04月03日

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激動の幕末・明治を支えた佐倉の人物

堀田正倫(ほった まさとも)

最後の佐倉藩主。明治維新後も佐倉の教育・産業振興に尽力

堀田正倫肖像

嘉永4年(1851)~明治44年(1911)

嘉永4 年(1851)、堀田正睦の4男として江戸で生まれました。兄たちが早くに亡くなったため嫡子となり、安政6 年(1859)、正睦の隠居にともない幼くして家督を継ぎました。慶応4 年(1868)の戊辰戦争の折には新政府に敵意のないことを釈明するため、上洛を試みましたが、捕らえられ京都に軟禁状態にされました。

維新後は藩知事となり、明治4 年(1871)の廃藩置県により、佐倉を離れ東京に移住。明治17 年(1884)に伯爵に叙されました。

明治20 年に宮内省より華族の地方移住が認可されると、旧領地の佐倉に戻り、農業・教育の振興に尽くすことを決意しました。明治23 年、佐倉に邸宅(現在の旧堀田邸・庭園)を構え、明治30 年(1897)には千葉県に先立ち、堀田家農事試験場を設立しました。さらに藩校の流れをくむ佐倉中学校(現・佐倉高等学校)への多額の寄付・支援を行いました。佐倉の人々と盛んに交流を深め、明治時代にあっても地域の象徴的存在として親しました。明治44 年(1911)、死去。墓所は佐倉市新町の甚大寺。

西村 茂樹(にしむら しげき)

幕末・明治の佐倉藩を支え、近代日本の教育・思想に大きな影響を与える

西村茂樹肖像

文政11年(1828)~明治35年(1902)

佐倉藩の支藩であった佐野藩の側用人・西村芳郁の子として江戸で生ました。10歳で佐倉藩の藩校である成徳書院で学び、後に弟の勝三とともに佐久間象山について西洋砲術を学びました。堀田正睦がアメリカとの条約交渉を行う際にこれを補佐し、明治になると佐倉藩大参事に任ぜられました。

その後、明治6年(1873)に福澤諭吉らとともに明六社を結成し、文部省に出仕しました。明治8年(1875)から天皇に学問を教える侍講にも選ばれ、同9年には、東京修身学社(現・日本弘道会)を設立。その後は華族女学校校長、貴族院議員などを務めました。

儒学だけでなく蘭学、英学を広く学んだ知識・経験を活かし、それぞれの長所を継承し、短所を補っていくという彼の道徳論・思想は西洋化の進む近代日本の教育・思想の中で、大きな影響を与えました。

【画像出典】

国立国会図書館「近代日本人の肖像」(https://www.ndl.go.jp/portrait/)

日本の近代教育・文化・産業の振興に活躍した人たち

津田 仙(つだ せん)

西洋野菜の普及に努め、キリスト教精神に基づく教育を行う

津田仙肖像

天保8年(1837)~明治41年(1908)

佐倉藩士の小島家に生まれました。藩校の成徳書院で学んだ後、安政4年(1857)、江戸でオランダ語、英語などを学んでいます。文久元年(1861)に幕臣の津田家の初子と結婚し、婿養子となりました。同年、外国奉行の通訳として採用され、慶応3年(1867)の幕府の使節団の通訳として福澤諭吉らとともにアメリカに渡りました。

明治維新後は、外国人向けのホテルに務め、西洋野菜のことを知ることとなりました。苦労を重ねて種からの栽培に取りかかり、当時としては珍しいアスパラガスやイチゴの栽培に成功しています。栽培だけでなく農業教育にも力を入れ、明治9年(1877)に学農社農学校を設立しました。また、青山学院や現在の筑波大学付属盲学校など明治初期のキリスト教精神に基づく学校の設立に数多く携わったことでも知られています。

【画像出典】

国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

【関連ページ】

津田 梅子(つだ うめこ)

日本初の女子留学生、「津田塾大学」を設立した女子高等教育の先駆者

津田梅子肖像

【画像出典】

国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

元治元年(1864)~昭和4年(1929)

津田仙の次女として生まれる。明治4年(1871)に開拓使嘱託となっていた父・仙は政府派遣の岩倉使節団に女子留学生を随行させると聞くと、梅子を応募させました。5名の少女がこのときアメリカに留学することとなったが、梅子は最も幼い満6歳での渡米でした。

梅子は、ジョージタウンに住むランマン夫妻のもとで約10年過ごし、アメリカの教育や文化を学び、明治15年(1881)に帰国。その後、華族女学校で英語教師として務めますが、より進んだ女子教育の必要性を痛感し、明治22年(1889)に再度アメリカに渡りました。帰国後、再び華族女学校の教壇にたち、女子高等師範学校にも奉職しましたが、女子教育への気運が高まるとこれを辞し、一般女子教育のための女子英学塾を明治33年(1900)に開きました。これが現在の津田塾大学の基となっています。自ら教壇にたち、英語教育に尽力した梅子は、女子高等教育の先駆者となりました。なお、令和6年(2024)発行予定の新5千円紙幣に梅子の肖像が採用されることが決まっています。

【関連ページ】

石川 照勤(いしかわ しょうきん)

25歳の若さで成田山新勝寺貫首となり、地域の文化・教育の向上に努める

明治2年(1869)~大正13年(1924)

明治2年(1869)10月10日、印旛郡坂戸村(現・佐倉市坂戸)に生まれした。明治11年、9歳で成田山新勝寺に入り、同12年9月から半年間、佐倉市直弥の宝金剛寺で修行しています。その後は、京都や東京で学び、同20年には仏教哲学者の井上円了が創設した哲学館(現・東洋大学)に入学し、1期生として卒業しました。

学業を終え成田に戻って間もなく、体調を崩した三池照鳳(みいけほうしょう)の後任に推薦され、明治27年(1894)に25歳の若さで第15世新勝寺貫首となった。明治31年(1898)から同33年まで欧米に留学し、帰国後は成田山の興隆と地域の文化・教育事業に着手しました。今日、成田山の五大事業といわれるもので、成田中学校(現・成田高等学校)、成田図書館(現・成田山仏教図書館)、成田幼稚園、成田山女学校(成田高等学校に統合)、成田山感化院を開設しました。成田の文化・教育に心血を注ぎ、成田山の名を全国に広めました。

西村 勝三(にしむら かつぞう)

日本で初めて靴の製造に挑戦し、近代産業の発展に力を尽くした実業家

西村勝三銅像

天保7年(1837)~明治40年(1907)

佐倉藩の支藩であった佐野藩の側用人・西村芳郁の三男として、天保7年12月(1837年1月)、江戸で生まれました。西村茂樹は、一番上の兄にあたり、茂樹と同様に佐久間象山に西洋砲術を学び、佐野藩の砲術指導にあたりました。その後、武士の身分を捨て脱藩し、商人として鉄砲をはじめとし、銅鉄、耐火煉瓦、ガラス、ガスなど様々な事業に取り組みました。

明治3年(1870)、「伊勢勝造靴場」の看板を掲げ、西洋式の革靴の製造にあたった。晩年、失敗ばかりの人生だったと回顧しているが、西洋式の革靴の製造は、現在の株式会社リーガルコーポレーションとなり、耐火煉瓦や西洋ガラスの製造などでも現在につながる企業を興した実業家として知られています。写真の銅像は現在の佐倉市民体育館に置かれているもの。

大塚 岩次郎(おおつか いわじろう)

日本人のための靴を作る会社をおこし、明治天皇の靴を作った

安政6年(1858)〜大正14年(1925)

佐倉藩士大塚隊之丞の次男として中尾余に生まれました。明治4年(1871)の廃藩によって各藩の藩士は収入を失いました。岩次郎は、西村勝三が士族授産のために開いた佐倉相済社で製靴の技術を学び、明治5年(1872)に14歳で独立して、東京市芝区(現在の東京都港区新橋)に大塚商会(現在の株式会社大塚製靴)を創業しました。

明治5年に宮中での正装を洋装とすることが公布されたものの、一般には和装がほとんどで、靴の需要は限られ、安定した経営が行える見込みは低い状況でした。それでも岩次郎は、製靴技術の研究と研鑽を続けました。

当時の明治政府は殖産興業を急ぎ、産業育成のため明治10年(1877)に上野公園で第1回国内勧業博を開催しました。岩五郎は、自ら作った靴を出品し、賞状・花紋賞牌を授与されました。その技術が認められ、明治15年(1882)に助五郎の大塚商店は、明治天皇の靴を作り、「宮内省御用達」の看板を掲げました。その技術は国外でも認められ、明治17年(1884)にロンドンで開催された万国衛生博覧会での賞状・銀牌授与など国外でもその技術を評価されました。

飯沼 金太郎(いいぬま きんたろう)

日本の航空黎明期のパイロット、航空学校も創設

飯沼金太郎肖像写真(大谷邦子氏提供)

(大谷邦子氏提供)

明治30年(1897)~昭和39年(1964)

飯沼徳次郎の長男として中尾余町に生まれました。母の実家は酒々井の飯沼本家。佐倉中学校(現在の佐倉高校)を卒業後、澤田秀陸軍中尉の書生となり、大正6年(1917)に帝国飛行協会(日本航空協会の前身)の第3期飛行機操縦練習生に採用されて、千葉県内2番目の民間パイロットとなりました。大正9年(1920)に東京大阪間周回長距離飛行に挑戦しましたが、神奈川県丹沢に遭難し、瀕死の重傷を負いました。

パイロットを断念して一時画家を志しましたが、昭和7年(1932)に亜細亜航空機研究所を開設、昭和8年には亜細亜航空学校、同航空機関学校を開校して、航空人の育成に邁進しました。

昭和10年(1935)頃より臼井に水上航空学校を開設する計画がありましたが、戦争の影響で中止。また、両学校も国策により昭和15年(1940)までに閉鎖の止むなきに至りました。同年、民間航空への貢献が評価され、逓信大臣より民間航空功労者の表彰を受けました。

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