佐倉ゆかりの芸術家

更新日:2024年03月26日

ページ番号: 18622

絵画の世界で活躍した佐倉ゆかりの芸術家

浅井 忠(あさい ちゅう)

日本近代洋画の先駆者

浅井忠肖像写真

安政3年(1856)~明治40年(1907)

 

安政3年(1856)、佐倉藩士の浅井伊織常明の長男として江戸屋敷で生まれました。文久3年(1863)、藩命により佐倉へ移住し、藩校で学びながら、藩士の黒沼槐山に日本画を師事しました。

明治9年(1876)、新設された工部美術学校に入学し、イタリア人画家フォンタネージから本格的な西洋美術の基礎教育を受けます。その教え子たちが中心となり、明治22年(1889)に日本初の洋風美術団体である明治美術会を創立し、画壇の中心的な存在となりました。

明治31年(1898)、東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授となりますが、1900年にパリで開催された万国博覧会の鑑査委員として、また西洋画研究のため2年間の留学を文部省から命ぜられ、フランスに留学します。

帰国後は、留学中に出会った中沢岩太の誘いにより、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の図案科教授として赴任し、当時京都にあった私塾を併合して聖護院洋画研究所(のちに発展的解消し関西美術院となる)を開設し、梅原龍三郎、安井曽太郎、黒田重太郎など多くの逸材を輩出しました。

また、留学中に興味を抱いた工芸図案の制作にも取り組み、図案家と陶芸家の研究団体「遊陶園」や漆芸家との「京漆園」の組織にも尽力するなど、若手の工芸作家の育成とともに伝統にとらわれない工芸図案の革新をめざしました。

都鳥 英喜(ととり えいき)

関西での洋画の発展と画壇の形成に功績を残した洋画家

都鳥英喜肖像写真

明治6年(1873)~昭和18年(1943)

 

明治6年(1873)、佐倉藩主堀田家の馬術指南役を代々つとめた家に生まれました。父は、浅井忠の父の弟であり、浅井家から都鳥家の嗣子となったため、浅井忠とは従兄弟関係にあたります。

浅井の影響で洋画家を志し、明治美術会展で活躍する一方、東京時事新報の報道画家として、明治29年(1896)の三陸沖津波の被害地や、1902年(明治35)の青森八甲田山軍隊凍死事件などを取材し、紙上に状況を挿絵として描いています。

明治34年(1901)、太平洋画会の創立に中心的な役割を果たしますが、翌年、浅井の誘いにより京都に移住し、京都高等工芸学校をはじめ、聖護院洋画研究所、関西美術院などで教え、浅井と共に多くの逸材を輩出しました。

大正8年(1919)、46歳の時に約2年間フランス、イタリアに留学し、浅井から学んだ写実を基にした、明るい色彩の風景画を描くようになります。

帰国後は、京都近郊の風景を好んで描き、太平洋画会展、京都市美術展などに発表し、関西洋画壇の中心的な存在として活躍しました。また、昭和5年(1930)に京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)の教授となり、後進の指導につとめました。

倉田 白羊(くらた はくよう)

子どもの自由画教育や農民美術に功績を残した

明治14年(1881)〜昭和13年(1938)

倉田幽谷(本名:務)の次男重吉として埼玉県浦和に生まれました。白羊の父・幽谷は立見家の四男として生まれ、後に倉田家を再興し、倉田と改めました。立見家は、堀田家が山形城主であった頃から仕えた古参の家臣でした。

浅井忠の妻やす は、立見家の出で、白羊の従兄の娘にあたります。白羊と浅井は親戚関係となります。

明治27年(1894)、夭折した兄、弟次郎の遺志を受け継ぎ、浅井忠に師事しました。東京美術学校卒業した後、都鳥英喜などと太平洋画会の創立に参加します。また、創作版画の普及のために出版された美術雑誌「方寸」の編集に、石井柏亭、山本鼎、森田恒友などと携わりました。

洋画家としては、大正4年(1915)に再興日本美術院同人となり、大正11年(1922)には、梅原龍三郎、岸田劉生らと春陽会を創立し、写実を重視して光あふれる風景を描きました。

春陽会を創立した歳、山本鼎が設立した日本農民美術研究所の副所長として、閑散期の農民が副業としてできる木工芸品や羊毛織物などの普及に尽力します。また、子どもの美術教育に、お手本を模写するのではなく、自らの見たものを画くという自由画を取り入れることにも力をそそぎました。

 

荒谷 直之介(あらたに なおのすけ)

水彩画の発展に尽力

明治35(1902)〜平成6年(1994)

富山県富山市で生まれ、本名は直之助。日本画家の川端龍子に憧れ、大正3年(1914)に画家を志して上京しますが、病気になり、一時帰郷。大正7年(1918)に再び上京し、赤城泰舒に師事して水彩画を学びました。

大正9年(1920)からは、黒田清輝が指導していた葵橋洋画研究所で本格的にデッサンを学び、日本水彩画会展などに出品し、第27回展では日本水彩紀元二千六百年記念賞を受賞しました。

昭和15年(1940)、春日部たすく、小堀進らとともに水彩画の質的向上を目指し、水彩連盟を結成。同展とともに、日展や一水会などでも活躍しました。油彩に負けない大画面の水彩画を画くことをめざし、昭和35年頃から新たな画風を展開。題材も家族や盟友など身近な人々をモデルに描き、次第に独自の理想とする人物像を模索するようになりました。

昭和43年(1968)に佐倉市上志津にアトリエを構え、死去するまでの26年間を過ごしました。

工芸の世界で活躍した佐倉ゆかりの芸術家

香取 秀真(かとり ほつま)

日本近代工芸(金工)の第一人者、歌人としても活躍

香取秀真肖像写真

明治7年(1874)~昭和29年(1954)

明治7年(1874)、千葉県印旛郡船穂村(現在の印西市)に生まれました。7歳の時に、佐倉の麻賀多神社宮司の養子となりました。幼い頃より仏像などに興味を抱き、明治25年(1892)に東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学します。

卒業後は、日本美術協会展やパリ万国博覧会、東京勧業博覧会などで受賞を重ね、審査員もつとめました。しかし、当時は、工芸が美術として認められていなかったため、その社会的な認知をめざして、国が主催する展覧会(官展)に美術工芸部を設置する運動を、津田信夫などの作家たちとおこし、中心的な役割を果たしました。

昭和8年(1933)、東京美術学校教授となり、また帝室博物館(現在の東京国立博物館)技芸員や帝国芸術院会員なども務め、昭和28年(1953)には、工芸家として初めて文化勲章を受章しました。中国や日本の古代・中世の器などの形や文様を基本とし、現代的な感覚を取り入れた作品を制作しました。

鋳金家として活動する一方、金工史の研究にも優れた業績を残し、また正岡子規と交流し、歌人としても有名です。

津田 信夫(つだ しのぶ)

伝統的な工芸の世界に、ヨーロッパの新思潮を取り入れたモダニズム運動を推進した鋳金家

津田信夫肖像写真

明治8年(1875)~昭和21年(1946)

 

明治8年(1875)、代々佐倉藩主堀田家の漢方医をつとめた家の長男として、佐倉の飯野に生まれま。私塾佐倉英学校、佐倉集成学校(現在の県立佐倉高等学校)を卒業しました。

明治28年(1895)、東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入り鋳金を学び、卒業後は同校が受注した依嘱事業の銅像、噴水などのモニュメントの鋳造に従事し、大正8年(1919)には教授となります。

大正12年(1923)、鋳金及び金工術の研究のため、ヨーロッパへ留学します。留学中の大正14年(1925)、パリ万国現代装飾美術工芸博覧会(通称、アール・デコ博)の日本政府参同事務取扱、審査員をつとめ、当時のヨーロッパ諸国の工芸の現状を知り、強い衝撃を受けました。

帰国後、若手の工芸家たちにヨーロッパの工芸の状況を話すとともに、新思潮による作品の制作を行い、当時の工芸界に多大な影響を与えました。その制作においては、日本の伝統的な生活様式に融合するとともに、変わりつつある新たな生活空間にも適応した作品をめざしています。そのため和室でも洋室でも、装飾として使用できる動物置物を数多く残しました。

森谷 延雄(もりや のぶお)

家具デザイン・インテリアデザインの分野で活躍

明治26年(1893)〜昭和2年(1927)

佐倉市の宮小路町に生まれ、佐倉中学(現在の県立佐倉高等学校)を卒業後、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に進学して工業図案を学びました。図案の公募展に入選、受賞を重ね、早くから才能を開花させました。卒業後は、大手ゼネコンに就職し、誠之堂(1916年竣工/国重要文化財)や晩香廬(1917年竣工/国重要文化財)のインテリアや家具の設計に携わりました。

大正9年(1920)、文部省よりヨーロッパ・アメリカ留学を命じられ、ドイツで「表現主義」と称する芸術思潮が、家具や室内の装飾に応用されていることに感銘を受けます。

帰国後、大正12年(1923)の関東大震災により丈夫で機能的な家具が求められる風潮の中で、生活に安らぎを与える家具の必要性を主張し、グリム童話などからインスピレーションを得て、表現主義の影響を受けた色彩豊かで繊細な家具や室内装飾を提案しました。

一方で、日本の生活の中に洋風家具を広めるために、安価でデザイン性豊かな家具をめざして、昭和2年(1927)に家具工房「木のめ舎」を立ち上げ、効率的な木材の切り出し、機能性とデザイン性に優れた家具を設計、制作しました。

しかし、33歳の若さで亡くなりました。その活動は、短期間でしたが、日本におけるインダストリアル・デザイナーのパイオニアと称せられています。

堀 柳女(ほり りゅうじょ)

人形に芸術性をもとめ、美術作品として制作した人形作家

堀柳女肖像写真

明治30年(1897)~昭和59年(1984)

 

明治30年(1897)年、佐倉藩士の家系の柿内家に生まれました。本名は、山田松枝。幼くして父親を亡くし、東京日本橋に住む堀家に養子となりました。抒情画で知られた竹久夢二と交友して、芸術的な感化を受け、昭和のはじめ頃から独創的な人形を作りはじめます。

日本の人形は、長い歴史の中で画一化され、その制作は男性の職人により担われてきましたが、柳女の活動は、それまでの人形制作の約束事にとらわれることなく、自由な発想であったため、人形の業界に新風を巻き起こしました。その人形は、従来の伝統的な人形に対し、「創作人形」と呼ばれています。

特に、人形は、美術作品として認知されず、国が主催する美術の公募展(官展)にも入選することはありませんでしたが、柳女などの創作人形をめざす作家たちにより人形芸術運動が起り、昭和11年(1936)柳女を含む6名の作家の人形がはじめて官展に入選しました。

それ以降、常に新しい表現に挑戦しつづけ、昭和30年(1955)に人形作家としてはじめて重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。その活動は、現在の人形制作者に多大な影響を与えています。

 

出版芸術の世界で活躍した佐倉ゆかりの芸術家

水島 爾保布(みずしま におう)

文画両道の挿絵画家

明治17年(1884)-昭和33(1958)

水島爾保布は、淀藩士の家系に生まれました。爾保布は本名です。爾保布の父・愼次郎は、もと佐倉藩の出野家の生まれで、淀藩の水島家の養子となりました。しかし、愼次郎は明治の佐倉藩士の親睦団体・佐倉郷友会の名簿に名を連ね、爾保布もまた佐倉青年会に名を連ねていることから、佐倉藩への帰属意識が強かったと思われます。

爾保布は明治41(1908)年、東京美術学校日本画科選科(現在の東京芸術大学)を卒業しました。日本画と洋画の障壁撤廃を訴えて結成した行樹社に参加し、作品を出品しています。谷崎潤一郎の『人形の嘆き』にイギリスの挿絵画家ビアズリー風の口絵・挿絵を描いたのをきっかけに、挿絵画家として注目されました。

また、挿絵の以外にも、本の装丁などを手掛けたほか、や新聞や雑誌に世相を風刺した漫画や随筆を多数発表しました。戦時中に新潟県長岡市に疎開し、戦後も同地にとどまり亡くなっています。

今村 恒美(いまむら つねみ)

寄席演芸を愛した粋な挿絵画家

明治42年(1909)-平成8年(1996)

佐倉生まれ。本名、栄。曾祖父に、佐倉藩士の今村治郎橘(1827?-1919)をもちます。今村治郎橘は、幕末に佐倉藩が行った蝦夷地の踏査に、画才を買われて同行し、絵図などを作成したことが知られています。

恒美は、はじめ、日本画家の堀田秀叢に花鳥画を学び、のちに山川秀峰に美人画を学びました。昭和10年頃より新聞小説や雑誌に連載された小説の挿絵を手がけました。中でも、横溝正史の人形佐七捕物帳をはじめとする時代小説では作家の信頼を受け、数多くの作品を残しました。

一方で、若い頃から芸事が好きで寄席の鈴本演芸場(東京都台東区)の番組(演目を書いたプログラム)の表紙絵を長年手掛けたほか、舞台にも出演して獅子舞を披露するなど、粋人として多くの芸人にも愛され、慕われもしたといいます。

山川 惣治(やまかわ そうじ)

「絵物語」という独自の形式で作品を発表し、子どもの心を掴んだ

明治41年(1908)〜平成4年(1992)

福島県に生まれました。少年のころから絵を描くのが得意で、15歳から印刷会社に住み込みで働きながら漫画家になる夢を抱いていました。

昭和7年(1932)に紙芝居の「少年タイガー」を描き、当時紙芝居で人気を博していた「黄金バット」をしのいだと言われています。その後、少年雑誌に作品が掲載されるようになると、雑誌上で紙芝居と同じような効果を出すために、小説の挿絵とも絵本ともちがう「絵物語」という独特の表現形式を編み出します。

太平洋戦争終結直後の年昭和22年(1947)、山川は「少年王者」を単行書として刊行。昭和26年(1951)には、新聞紙上に「少年ケニヤ」を発表し、少年から大人まで世代を越えたファンを獲得しました。山川の作品は、ペンで細かく描き込まれた躍動感あふれる動物の描写に特徴がありましたが、多くの作品に両親と離れ離れになりながらも、仲間と協力して、困難に立ち向かうという共通したメッセージが込められていました。それは、戦争で親を失った子供たちや貧困のなかで必死に生活する人々の共感を得たからだと思われます。

昭和62年(1987)、79歳の時、佐倉市に転居し、自然豊かな環境が気に入り、自らを「老年ケニヤ」と称し、孫たちと未開発の森を散策したといいます。

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