古代の豪族・在地領主たち

更新日:2024年02月26日

ページ番号: 3808

(注意)現在作業のため作成中のコンテンツです。ご了承ください。

佐倉に影響を与えた古代の豪族・初期武士

平 将門(たいらの まさかど)

親戚との争いが反乱に

延喜3年(903)?~天慶3年(940)。

桓武平氏。高望王の孫で、鎮守府将軍平良将の子。下総国猿島郡・豊田郡を本拠としていました。

承平5年(935)、伯父たち平国香・良兼・良正と父の遺産の土地を巡って合戦を始め、これに勝利すると、関東各地から将門を頼って豪族たちが集まってきました。

天慶2年(939)に、武蔵国・常陸国の紛争に介入しました。その後、常陸・下野・上野の国府を制圧し、承平天慶の乱を起こしました。坂東8か国を手中に収めると、新皇と称して関東各国に国司を任命しました。

朝廷は、平将門追討の命令を下し、それに呼応した藤原秀郷と平国香の子貞盛によって天慶3年(940)に討ち取られました。

平 忠常(たいらの ただつね)

房総に戦乱と荒廃をもたらした

康保4年(967)~長元4年(1031)。

桓武平氏。平将門の叔父良文の孫。上総国・下総国に所領を持ち、安房国にも勢力を伸ばしました。

長元元年(1028)に安房の国衙を襲撃し、対立していた国司の平惟忠を殺害しました。朝廷は、報告を受け、平直方を追討使として派遣しました。忠常は朝廷に反抗する意図はなかったようですが、直方とは敵対関係にあり、徹底抗戦しました。

合戦が長期化し、戦場となった房総半島は荒廃し、生産力が失われました。税の徴収ができなくなることを恐れた朝廷は、長元3年(1030)に平直方を罷免し、後任の追討使として源頼信が任命しました。源頼信は、かつて常陸の国司であった時に忠常と主従関係を結んでいたので、交渉の結果、忠常は降伏しました。

長元4年(1031)に忠常は京への護送中に美濃国で病死しましたが、その子孫は赦免され、現地の最有力者として再開発を主導していくことになりました。

千葉 常胤(ちば つねたね)

源頼朝の挙兵に協力し、支配地を広げる

佐倉市域にあった荘園の在地領主たち

印東氏(いんとうし)

平氏に味方し、没落

桓武平氏。両総平氏の族長である上総常澄の子常茂が下総国印旛郡印東荘を領し、印東次郎と称しました。常茂は、平家と結びつくことによって一族の長の地位を弟の上総広常と争っていました。

治承4年(1180)に源頼朝が挙兵した時、京にいた常茂は平家に味方し、上総広常の軍勢と戦い、討死をとげました。その後印東氏は印東荘の支配権を失い、わずかに所領を安堵された一族が御家人として存続しました。

白井氏(しらいし)

上総広常誅殺に連座して没落

桓武平氏、千葉氏一族。千葉常兼の子が下総国白井荘の現地支配者となり、白井次郎常親と称しました。

治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、上総・下総に最も勢力のあった上総広常の軍勢に属していました。寿永2年(1183)に上総広常が源頼朝に誅殺されると、連座して白井庄の現地支配権は千葉常胤の手に移り、その後、千葉常胤の孫胤時が白井庄を支配し、白井氏を称しました。

臼井氏(うすいし)

鎌倉時代も御家人として命脈をつなぐ

桓武平氏、千葉氏一族。千葉常兼の子常康が臼井荘を本拠とし、臼井氏と称しました。

治承4年(1180)に源頼朝が挙兵すると、常康の孫成常・久常の兄弟は、上総・下総に最も勢力のあった上総広常の軍勢に属していました。寿永2年(1183)に源頼朝が上総広常を誅殺すると、千葉常胤が臼井庄を掌握しました。

この記事に関するお問い合わせ先

[教育委員会 教育部]文化課(文化財班)
〒285-8501千葉県佐倉市海隣寺町97番地
電話番号:043-484-6192
ファクス:043-486-9401

メールフォームによるお問い合わせ