近世の佐倉を生きた人物たち

更新日:2024年03月01日

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近世(江戸時代)

原 胤信(はら たねのぶ)

キリスト教に殉じた武士

天正15年(1587)〜元和9年(1623) 

臼井城主原胤栄の孫。主水助を称していたため、原主水の名で知られています。

天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原合戦によって小田原北条氏は滅亡し、従属していた原氏はその主家にあたる千葉氏とともに城主の地位を失い、没落しました。

その後、胤信は、徳川家康から小姓として召し出され、旗本として取り立てれましたが、慶長5(1600)に受洗し、キリシタンになりました。 

慶長17年(1612)に幕府はキリスト教の禁教令を発しましたが、胤信は棄教せず、逃亡し、ひそかに布教を続けました。慶長19年に捕らえられましたが、棄教を拒絶したため、元和元年(1615)に額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られて追放されました。  追放後も布教を続けたため、再び捕らえられ、元和9年(1623)に江戸・高輪(東京都港区)の高札場で火刑に処せられました。 

原胤信の死によって原氏宗家は断絶しましたが、その死後385年後の平成20年(2008)、ジョアン原主水は長崎で福者に列福されました。

川口 宗重(かわぐち むねしげ)

近世初期の臼井の領主

天正14年(1586)~承応3年(1654)

慶長11年(1606)~元禄17年(1704)まで臼井の領主であった旗本川口氏の一族。

川口氏は、戦国時代に織田氏に仕えていましたが、父宗勝の代に関ケ原の合戦で西軍に属したため、一時伊達政宗に預けられました。その後、徳川秀忠の家臣となり、印旛・葛飾の両郡内に2,500石を知行しました。川口氏は、臼井八幡社を厚く崇敬し、様々な寄進を行っていました。

川口宗重は、宗勝の三男で、慶長17年(1612)に葛飾郡臼井500石継承し、後に上総・甲斐の両国内で加増され、2,000石を知行しました。

宗重は、大塚山の墳墓(現在の八幡台3丁目)に葬られましたが、その墓は住宅地造成に伴い、臼井八幡社の近くに移設されました。

渡辺 善右衛門守由(わたなべ ぜんえもんもりよし)

稲葉家家臣で「古今佐倉真佐子」の作者

渡辺 弥一兵衛(わたなべ やいちべい)

平野 重久(ひらの しげひさ)

木村 軍太郎(きむら ぐんたろう)

雷電 為右衛門(らいでん ためえもん)

勝率9割以上、無双の力士

稲川 政之助(いながわ まさのすけ)

臼井出身の力士、最高位は関脇

七代目 市川 團十郎(いちかわ だんじゅうろう)

加賀清水を絶賛した歌舞伎の名優

寛政3年(1791)〜安政6年(1859)

五代目市川團十郎の孫として江戸で生まれました。寛政6年(1794)、市川新之助の名で初舞台。2年後には6歳にして『暫』をつとめました。寛政11年(1799)に六代目團十郎が急死し、翌年七代目市川團十郎を襲名しました。

歴代の團十郎は成田山新勝寺を篤く信仰しており、七代目團十郎は天保2年(1831)に成田街道(佐倉道)沿いの井野に成田山への信仰と加賀清水の所在を刻む道標を建立しました。その道標には「天はちち地はかかさまの清水かな」という俳句が刻まれており、母親(かかさま)と佐倉城主だった大久保加賀守忠朝(加賀様)をかけて句を詠んでいます。

延宝6年(1678)から貞享3年(1686)まで佐倉城主だった大久保加賀守忠朝は、江戸参府の際にいつもこの清水を賞味していたことが加賀清水の由来です。

天保3年(1832)、息子の六代目市川海老蔵に八代目團十郎を継がせ、自身は五代目市川海老蔵を襲名しました。このとき歌舞伎十八番を制定し、『歌舞妓狂言組十八番』という摺物を出版しました。

天保13年(1842)、天保の改革の奢侈禁止により江戸南町奉行所から手鎖・家主預りの処分を受け、さらに江戸十里四方から追放され、江戸での興行が不可能となりました。成田山新勝寺延命院で蟄居したのち、駿府へ向かい、その後大阪へ移り、京・大津・桑名などで旅回り芝居の舞台に立ちました。

嘉永2年(1849年)に赦免され、翌年江戸に帰りましたが、その後も旅芝居を多くつとめ、上方の舞台に多く立ちました。

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