近世を生きた佐倉ゆかりの人々

更新日:2024年03月19日

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近世を生きた佐倉ゆかりの人々

原 胤信(はら たねのぶ)

キリスト教に殉じた武士

天正15年(1587)〜元和9年(1623) 

臼井城主原胤栄の孫。主水助を称していたため、原主水の名で知られています。

天正18年(1590)に豊臣秀吉による小田原合戦によって小田原北条氏は滅亡し、従属していた原氏はその主家にあたる千葉氏とともに城主の地位を失い、没落しました。

その後、胤信は、徳川家康から小姓として召し出され、旗本として取り立てられましたが、慶長5(1600)に受洗し、キリシタンになりました。 

慶長17年(1612)に幕府はキリスト教の禁教令を発しましたが、胤信は棄教せず、逃亡し、ひそかに布教を続けました。慶長19年に捕らえられましたが、棄教を拒絶したため、元和元年(1615)に額に十字の烙印を押され、手足の指全てを切断、足の筋を切られて追放されました。  追放後も布教を続けたため、再び捕らえられ、元和9年(1623)に江戸・高輪(東京都港区)の高札場で火刑に処せられました。 

原胤信の死によって原氏宗家は断絶しましたが、その死後385年後の平成20年(2008)、ジョアン原主水は長崎で福者に列福されました。

川口 茂右衛門尉宗重(かわぐち もえもんのじょう むねしげ)

近世初期の臼井の領主

天正14年(1586)~承応3年(1654)

慶長11年(1606)~元禄17年(1704)まで臼井の領主であった旗本川口氏の一族。

川口氏は、戦国時代に織田氏に仕えていましたが、父宗勝の代に関ケ原の合戦で西軍に属したため、一時伊達政宗に預けられました。その後、徳川秀忠の家臣となり、印旛・葛飾の両郡内に2,500石を知行しました。川口氏は、臼井八幡社を厚く崇敬し、様々な寄進を行っていました。

川口宗重は、宗勝の三男で、慶長17年(1612)に葛飾郡臼井500石継承し、後に上総・甲斐の両国内で加増され、2,000石を知行しました。

宗重は、大塚山の墳墓(現在の八幡台3丁目)に葬られましたが、その墓は住宅地造成に伴い、臼井八幡社の近くに移設されました。

渡辺 善右衛門守由(わたなべ ぜんえもん もりよし)

稲葉家家臣、「古今佐倉真佐子」の作者

元禄14年(1701)〜宝暦12年(1762)

父の善右衛門満保の代から譜代大名稲葉家に仕え、江戸郊外の青山(現在の東京都港区)の稲葉家下屋敷で生まれました。稲葉正通(正往)が老中となり、越後国高田(現在の新潟県上越市)から佐倉に転封されると、父が江戸詰めになるまでの幼少期を鏑木小路で、家督後の青年期を舟見町で居住しました。

享保元年(1716)に家督を相続し、翌年に佐倉に移りました。番方(武官)として佐倉城二ノ門の警備、その後は稲葉正知の帰国時の御供廻りを務めました。

私生活では、『古今佐倉真佐子』にもあるように佐倉城下だけではなく、その周辺にも出かけ、成田山新勝寺にも参詣していました。

享保8年(1723)に稲葉正知が山城国淀(現在の京都市)に転封になると善右衛門も淀に移り、御供廻りを務めました。主家稲葉家では正知の死後、5年の間に3人の藩主が死去しました。その跡を継いだ稲葉正甫が享保19年(1734)に朝鮮通信往来使来朝御用掛に任じられると、善右衛門はその饗応役を担当し、その後も重要な役を務めました。宝暦11年(1761)に隠居し、翌年死去しました。

善右衛門は、享保19年(1734)ころから『古今佐倉真佐子』の執筆を始め、宝暦3年(1753)に完成したと思われます。『古今佐倉真佐子』と対をなす『古今淀真佐子』などの著作や絵画を残しており、20代の終わりの最初の著作では、徳川吉宗に献上された象が淀に立ち寄った時のことを彩色画と文で描いています。朝鮮通信使についても約10mの彩色行列図とともに記録を残しました。

雷電 為右衛門(らいでん ためえもん)

勝率9割以上、強すぎた無双の力士

明和4年(1767)〜文政8年(1825)

信濃国小県郡大石村(現在の東御市)で生まれました。天明4年(1784)に伊勢ノ海部屋谷風梶之助(大関)の内弟子に、天明8年(1788)に松江藩主松平治郷(不昧)の抱え力士となりました。

寛政2年(1790)に初土俵、寛政7年(1795)に大関に昇進しました。文化8年(1811)の引退までの35場所、総取組数285で勝ち254、負け10、引き分け2、預かり14、無勝負5、休み30の成績を残しています。

享和元年(1801)2月に臼井宿での5日間の興行を務めました。雷電の妻八重(前名おはん)は、臼井上宿の「天狗茶屋」の娘で、その縁で晩年を臼井で過ごし、文政8年(1825)に死去しました。墓は臼井の本覚山浄行寺跡の墓地にあります。

稲川 政之助(いながわ まさのすけ)

臼井出身の力士、最高位は関脇

文化3年(1806)~嘉永6年(1853)

佐倉市臼井台の出身の力士。文政13年(1830に初土俵、最高位は関脇。天保7年(1836)に入幕、天保8年(1837)に「麻ヶ嶽」、翌年10月に「稲川」となりました。

所属した浦風部屋の指導者が雷電であり、天保11年(1840)に関脇となりました。以後上位で活躍しましたが、嘉永4年(1851)に引退しました。

七代目 市川 團十郎(いちかわ だんじゅうろう)

加賀清水を絶賛した歌舞伎の名優

寛政3年(1791)〜安政6年(1859)

五代目市川團十郎の孫として江戸で生まれました。寛政6年(1794)、市川新之助の名で初舞台。2年後には6歳にして『暫』をつとめました。寛政11年(1799)に六代目團十郎が急死し、翌年七代目市川團十郎を襲名しました。

歴代の團十郎は成田山新勝寺を篤く信仰しており、七代目團十郎は天保2年(1831)に成田街道(佐倉道)沿いの井野に成田山への信仰と加賀清水の所在を刻む道標を建立しました。その道標には「天はちち地はかかさまの清水かな」という俳句が刻まれており、母親(かかさま)と佐倉城主だった大久保加賀守忠朝(加賀様)をかけて句を詠んでいます。

延宝6年(1678)から貞享3年(1686)まで佐倉城主だった大久保加賀守忠朝は、江戸参府の際にいつもこの清水を賞味していたことが加賀清水の由来です。

天保3年(1832)、息子の六代目市川海老蔵に八代目團十郎を継がせ、自身は五代目市川海老蔵を襲名しました。このとき歌舞伎十八番を制定し、『歌舞妓狂言組十八番』という摺物を出版しました。

天保13年(1842)、天保の改革の奢侈禁止により江戸南町奉行所から手鎖・家主預りの処分を受け、さらに江戸十里四方から追放され、江戸での興行が不可能となりました。成田山新勝寺延命院で蟄居したのち、駿府へ向かい、その後大阪へ移り、京・大津・桑名などで旅回り芝居の舞台に立ちました。

嘉永2年(1849年)に赦免され、翌年江戸に帰りましたが、その後も旅芝居を多くつとめ、上方の舞台に多く立ちました。

幕末に活躍した佐倉藩士

渡辺 弥一兵衛(わたなべ やいちべい)

平野 重久(ひらの しげひさ)

木村 軍太郎(きむら ぐんたろう)

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