戦国乱世の佐倉に関わった人物

更新日:2024年03月22日

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本佐倉城ゆかりの人々

千葉 孝胤(ちば のりたね)

父輔胤とともに佐倉千葉氏の確立を目指した

嘉吉3年(1443)~永正2年(1505)

千葉氏本宗家を奪取した馬加氏(現在の千葉市花見川区幕張町を本拠とした庶流)の跡を継ぎ、千葉氏正嫡となった輔胤とともに、佐倉千葉氏を新たな千葉氏嫡流として確立させました。

享徳の乱(1455~1483)では、孝胤は古河公方足利成氏を支持し、文明3年(1471)には古河(現在の茨城県古河市)を退去した成氏を房総にむかえ、古河復帰の手助けをしました。

その後、室町幕府将軍と古河公方の和睦気運がたかまると、旧千葉宗家の血筋をひく武蔵千葉氏の復権を嫌ったため、文明10年(1478)に太田道灌の房総進軍を受けて、下総国境根原(現在の千葉県柏市)にて敗れました。その翌年、臼井城に籠城しましたが、攻め落とされてしまいます。ただ孝胤は、すぐに臼井城を奪還したと思われます。

文明年間(1469~1478)頃とされる本佐倉城の築城は、孝胤もしくはその父輔胤によって行われました。文亀2年(1502)6月ころから永正元年(1504)4月まで、古河公方足利政氏・高基親子が篠塚(現在の佐倉市小篠塚・大篠塚)に在陣し、千葉氏に攻撃を加えますが、孝胤は千葉氏を離反した木内氏を討ち、公方方を退転させました。

晩年には、嫡子勝胤と対立関係にあった可能性を指摘する研究もあり、文亀3年(1503)には出家しています。

千葉 勝胤(ちば かつたね)

和歌に心を寄せる

文明3年(1471)~天文元年(1532)

千葉孝胤の嫡子。享徳の乱が終了しても、関東では古河公方家や上杉氏に内訌がおこり、北条氏というあらたな有力者も登場し、戦乱はおさまりませんでした。このような時、千葉勝胤は、千葉氏家督を継ぎましたが、同時期に父親孝胤の活躍もみられることから、千葉氏の結束も一枚岩ではなく、揺れ動いていたと考えられています。

古河公方足利政氏とその子高基の争いがおこると、勝胤は高基側につきました。勝胤は子息昌胤や原氏・海上氏などを高基に供奉させ、東総方面に勢力を拡大していきました。しかし、永正15年(1518)には足利義明が千葉の小弓に入部し、小弓公方となり、足利高基とそれを支持する勝胤とは対立していくようになりました。

その一方、勝胤は和歌を愛好し、『雲玉和歌集』の編さんを後援し、勝胤の居城本佐倉城周辺には歌壇が形成されました。『雲玉和歌集』には「平のなにかしともうしたてまつりて 弓馬の家にすくれ威を八州にふるい 諸道に達して政を両総におさめ中にも 大和歌に心をよせて作倉と申地にさきくさ のたねをまき給」と記されています。

本佐倉城下に菩提寺として勝胤寺(佐倉市大佐倉)を建立しました。勝胤寺には、千葉勝胤を描いたと言われる画像が残されています。

千葉 胤冨(ちば たねとみ)

東総地域と小田原北条氏を拠り所にして活躍

大永7年(1527)~天正7年(1579)

千葉利胤の三男。当初、千葉氏一族である海上氏の名跡を継ぎ、森山城(香取市)を本拠としていました。しかし、千葉氏当主であった千葉親胤が死去すると、親胤に子息がいなかったため、その兄であった胤富が千葉氏の家督を継ぐことになりました。胤富は自分の差し出した手紙に鶴を描いた丸黒印を使用したことでも有名です。この印は、海上氏の家紋に由来すると言われ、胤富は海上氏が拠っていた銚子周辺地域から大きな支援を受けていました。

胤富が家督を受け継いだ時代には、永禄3年(1560)に正木氏が香取に侵攻し、永禄9年(1566)まで香取周辺を占拠しました。さらに永禄9年には上杉謙信が臼井城を包囲します。永禄12年(1569)には、里見氏の軍勢が臼井の郷村に放火をしてまわりました。このような敵対勢力に対抗していくため、千葉胤富は、小田原の北条氏と緊密な関係を築いていきました。

胤富が千葉氏当主として最後に書状を差し出したのは、天正元年(1573)8月です。胤富を供養する五輪塔が勝胤寺(佐倉市大佐倉)、宝篋印塔が海隣寺(佐倉市海隣寺町)に残されています。

千葉 邦胤(ちば くにたね)

若くして家臣によって暗殺

弘治3年(1557)~天正13年(1585)

千葉胤富の嫡男。千葉邦胤は、元亀2年(1571)に佐倉妙見宮(本佐倉城)にて元服をし、天正元年(1573)8月から天正2年11月の間に家督を継承したと思われます。邦胤の妻は、北条氏政の娘芳桂院殿です。邦胤は、姻戚関係から小田原の北条氏と強い結びつきを持ちました。北条氏による土気・東金の酒井氏の従属化、安房の里見氏との和睦を背景にして、千葉氏の領国支配を安定させていきます。発給文書には龍朱印を用いました。

しかし、千葉氏一族である国分氏が反乱をおこし、鎮圧しましたが、天正13年(1585)には、家臣である一鍬田孫五郎によって邦胤は暗殺されたと言われています。邦胤を供養する五輪塔と宝篋印塔が、海隣寺(佐倉市海隣寺町)に残されています。

邦胤には芳桂院殿との娘と岩松守純娘ともうけた長男の亀王丸(千葉重胤)がいましたが、幼少であったため、北条氏政五男である七郎直重が千葉氏の婿養子となることになりました。

千葉 直重(ちば なおしげ)

小田原北条氏から千葉氏に婿養子入り

生年未詳~寛永4年(1627)

北条氏政の五男。千葉邦胤の暗殺後、北条氏政が佐倉へ進軍し、佐倉地域を直接支配しました。邦胤の子息には、新田岩松氏の娘が生んだ亀王丸(重胤)がいましたが、氏政は、邦胤娘の婿として、直重を千葉氏当主とします。一族を千葉氏に養子に入れ、千葉氏当主とすることによって、北条一族に千葉氏を取り込んでいこうとしたのでした。直重は、鹿島城に入り、「佐倉御旗本」を組織したと言われますが、その詳細については、諸説あります。

豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、直重は小田原城に籠城していました。北条氏が降伏すると、直重は北条氏当主である氏直の高野山謹慎に同行します。のちに赦され、名字を北条氏の本姓である伊勢に改めて、阿波国の蜂須賀家政に500石を与えられて家臣となりました。

臼井城の合戦にかかわった人々

太田 図書助資忠(おおた ずしょのすけ すけただ)

臼井城攻めで激闘、討死

?〜文明11年(1479)

関東管領扇谷上杉氏の重臣太田道灌の弟。

文明10年(1478)に上杉方の太田道灌は、下総国国府台(市川市)に陣地を構え、古河公方方の千葉孝胤を境根原(柏市)で破りました。千葉孝胤は、臼井城に退却し、籠城しました。翌年に太田資忠は、千葉自胤(武蔵千葉氏)とともに臼井城攻撃を命じられ、周囲の諸城を攻略し、包囲を狭めていきました。

臼井城は防備が堅固であり、上杉方は一旦退却しようとしましたが、城内から追撃されました。上杉方も反撃し、臼井城は落城しましたが、太田資忠は、多くの武将とともに討死をとげました。

臼井城址公園の近くには「太田図書之墓」があります。

上杉 謙信(うえすぎ けんしん)

関東管領として越後国から関東に進軍

享禄3年(1530)〜天正6年(1578)

徳川家康関東入封後の佐倉市域の城主たち

北条 氏勝(ほうじょう うじかつ)

戦国を生き残り、近世大名に転身

永禄2年(1559)〜慶長16年(1611)

酒井 家次(さかい いえつぐ)

最後の臼井城主

永禄7年(1564)~元和4年(1618)

徳川家康の従弟。徳川四天王の筆頭、酒井忠次の嫡男として三河国に生まれました。天正16年(1588)11月、家督を継いで三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)で3万石を領しました。

天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めで小田原北条氏が敗北すると、関東は徳川家康の支配下となり、家次は臼井で3万石を領しました。徳川家康が征夷大将軍となると、慶長9年(1604)に上野国高崎に5万石で加増移封となり、臼井城は廃城となりました。

その後、慶長19年(1614)の大坂冬の陣、元和元年(1615)の夏の陣に参戦しました。元和2年(1616)に松平忠輝が改易され、代わって越後国高田(現在の新潟県上越市)に10万石で封ぜられました。

武田 信吉(たけだ のぶよし)

武田家の名跡を継いだ徳川家康の五男

天正11年(1583)~慶長8年(1603)

松平 忠輝(まつだいら ただてる)

徳川家康の六男、後に改易、配流

文禄元年(1592)~天和3年(1683)

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