おもな佐倉城主(藩主)と堀田家の人々

更新日:2024年04月01日

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土井 利勝(どい としかつ)

徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた重臣、佐倉城を築城

天正元年(1573)〜正保元年(1844)

三河国(現在の愛知県東部)に生まれ、土井利昌の養子になりました。徳川家の親戚筋にあったためか、家康の三男秀忠が生まれると7歳で取り立てられました。土井利昌には実子がいましたが、利勝が家督を継ぎました。

慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠に従って江戸から中山道を経由して西へ向いましたが、信濃国上田(現在の長野県上田市)の西軍の真田昌幸との交戦のため、決戦には間に合いませんでした。

慶長7年(1602)に1万石を領して下総国小見川(現在の香取市)の領主となり、慶長10年(1605)に秀忠が征夷大将軍になると、利勝も従五位下・大炊頭に叙位・任官し、二代将軍秀忠の側近としての地位を固めていきました。

慶長15年(1610)に小見川から佐倉へ3万2千石に加増移封となりました。その後、家康の命令により秀忠付きの年寄(後の老中)に任じられました。佐倉城の築城と城下町の整備は、慶長16年(1611)から始め、元和3年(1617)に完成しました。慶長17年(1612)には4万5千石に加増されました。

元和8年(1622)、徳川家康の有力な側近だった本多正純が失脚すると、利勝は名実ともに幕政の最高実力者となりました。元和9年(1623)、徳川秀忠は将軍職を家光に譲りましたが、その後も利勝は家光を支え、幕政に重きをなしました。寛永2年(1625)に14万2千石に加増され、寛永10年(1633)、下総国古河(現在の茨城県古河市)に16万2千石に加増移封されました。

その後も幕藩体制の確立に尽力し、寛永12年(1635)に参勤交代を制度化、寛永13年(1636)に寛永通宝を鋳造するなど幕府の体制を整備していきました。しかし、次第に体調を崩し、寛永15年(1638)、実務を離れ、大老に任じられました

堀田 正盛(ほった まさもり)

三代将軍徳川家光の側近

慶長13年(1608)~慶安4年(1651)

3代将軍徳川家光の乳母春日局の義孫。元和6年(1620)に家光に近習として仕えました。寛永5年(1628)にそれまで領していた5千7百石から1万石に加増され、大名となりました。

寛永10年(1633)に松平信綱・阿部忠秋らとともに六人衆と呼ばれ、幕政に参画するようになります。寛永11年(1634)に川越3万5千石の城主となり、松平信綱・阿部忠秋とともに年寄(後の老中)となりました。寛永15年(1638)には松本10万石、寛永19年(1642)に佐倉11万石を領しました。

正盛は年寄として幕府の中心で活躍していましたが、家光が死去すると、同じく年寄だった阿部重次らとともにその後を追い、殉死しました。

堀田 正信(ほった まさのぶ)

幕政を批判し、無断で佐倉に帰城し、改易に

寛永8年(1631)〜延宝8年(1680)

堀田正信の長男。万治3年(1660)に幕政を批判し、領地返納を申し出でて、無断で江戸から佐倉に帰城しため、改易となりました。身柄は、実弟の信濃国飯田(現在の長野県飯田市)の脇坂安政に預けられました。

延宝8年(1680)に4代将軍徳川家綱の死去を知ると、配流先の徳島で自害しました。嫡男の正休は、父の罪で蟄居していましたが、やがて赦免され、上野国吉井(現在の群馬県高崎市)で1万石の大名に取り立てられました。その後、近江国宮川(現在の滋賀県長浜市)に1万石で転封され、子孫は明治まで続きました。

堀田 正俊(ほった まさとし)

五代将軍徳川綱吉を擁立

寛永11年(1634)〜貞享元年(1684)

堀田正盛の三男。正俊系堀田家初代。

大久保 忠朝(おおくぼ ただとも)

加賀清水の由来

寛永9年(1632)〜正徳2年(1712)

徳川家康の重臣、大久保忠世の曽孫。延宝5年(1677)に老中となり、加賀守を称しました。延宝6年(1678)に肥前国唐津(現在の佐賀県唐津市)から佐倉に移封され、天和元年(1681)、老中の首座を務めるようになりました。

忠朝は、江戸参府の際にいつも成田街道(佐倉道)沿いの井野の湧水を賞味していたことからこの湧水は「加賀清水」と呼ばれるようになったといわれています。

貞享元年(1684)、江戸城内にて大老堀田正俊殺害事件に遭遇し、その場で他の老中らとともに加害者の稲葉正休を斬殺しました。

貞享3年(1686)に相模国小田原城に移封加増され、10万3千石となりました。

松平 乗邑(まつだいら のりさと)

八代将軍徳川吉宗の享保の改革を推進

元禄3年(1690)〜延享3年(1746)

大給松平氏。肥前国唐津藩主松平乗春の長男として誕生しました。

享保8年(1723)に老中となり、山城国淀(現在の京都市)から佐倉に転封されました。その後、8代将軍徳川吉宗の享保の改革を推進し、勝手掛の老中として幕府財政の改善を担当しました。また、寺社奉行、町奉行、勘定奉行ともに「公事方御定書」(刑事裁判の判例集等)の編纂を行いました。

延享2年(1745)、家重が9代将軍に就任すると老中を解任され、加増1万石を没収の上、隠居を命じられました。家督相続は許されましたが、出羽国山形に転封となりました。

堀田 正亮(ほった まさすけ)

下総佐倉堀田家十一万石のはじまり

正徳2年(1712)~宝暦11年(1761)

堀田正俊の孫。享保16年(1731)に家督を相続しました。その後、寛保2年(1742)に寺社奉行、延享元年(1744)に大坂城代を歴任し、延享2年(1745)に老中となりました。老中として宇和島・伊達家と仙台・伊達家の対立を調停するなど手腕を発揮し、寛延2年(1749)に老中の首座となりました。

延享3年(1746)に佐倉へ転封となり、以後は幕末まで堀田正俊の子孫の家系が佐倉藩主として続きました。

 

堀田 正順(ほった まさあり)

藩校を創設

延享2年(1745)〜文化2年(1805)

堀田 正睦(ほった まさよし)

藩政改革と開国に尽力

文化7年(1810)~元治元年(1864)

堀田 正倫(ほった まさとも)

明治維新後も佐倉の教育・産業振興に尽力した最後の藩主

嘉永4年(1851)~明治44年(1911)

嘉永4 年(1851)、堀田正睦の四男として江戸で生まれる。兄たちが早くに亡くなったため嫡子となりました。安政6 年(1859)、正睦の隠居にともない幼くして家督を継ぐ。慶応4 年(1868)の戊辰戦争の折には新政府に敵意のないことを釈明するため、上洛を試みましたが、その途上で捕らえられ、京都に軟禁状態にされました。

維新後は藩知事となり、明治4 年(1871)の廃藩置県により、佐倉を離れて東京に移住しました。明治17 年(1884)に伯爵に叙され、明治20 年に宮内省より華族の地方移住が認可されると、旧領地の佐倉に戻り、農業・教育の振興に尽くすことを決意。明治23 年、佐倉に邸宅(旧堀田邸)を構え、明治30 年(1897)には堀田家農事試験場を設立しました。さらに藩校の流れをくむ佐倉中学校(現在の佐倉高等学校)への多額の寄付・支援を行いました。

佐倉の人々と盛んに交流を深め、明治時代にあっても地域の象徴的存在として親しまれました。明治44 年(1911)に死去。墓所は佐倉市新町の甚大寺。

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