【金銅製灌頂道具類】〔佐倉市指定文化財〕
「金銅製灌頂道具類」について
「金銅製灌頂道具類」が佐倉市指定有形文化財に指定されました。(令和8年7月3日)
これらは、佐倉市直弥の宝金剛寺(真言宗豊山派)に伝来した宝冠、玉幡2種、幡からなります。灌頂の儀式で用いられた金銅製の道具類で、17世紀から18世紀の制作年代をうかがうことができます。
これらの灌頂道具は同時に誂えられたものではないものの、江戸時代初期から中期にかけて制作されたことが明らかです。また、現状市内で同類のものは確認されておらず、いずれも造形に優れた美術史的価値の高い貴重な作例です。そして宝金剛寺は、少なくとも江戸時代初期には伝法灌頂を行う真言道場として位置付けられていたことがわかっており、あわせてこれらの灌頂道具が伝来していることは、地域の中核寺院という位相を示す好例といえます。よって、これらの文化財は真言密教の儀礼で用いられる灌頂道具として貴重であるとともに、宝金剛寺が近世的な地域の中核寺院としての役割を果たしたことを示すうえでも重要な作例です。
宝冠
二個一組で差し込み式の日輪・月輪の前立、垂飾や剣状の簪、管を有す。全体は純銅製で、本体の表には鍍金が施されている。日輪の前立は軸部を鍍銀、輪を鍍金とし、月輪の前立は軸部を鍍金、輪を鍍銀と使い分ける。灌頂道具における宝冠と共通する特色がみられる。
側面には「元和六年(1620)十二月吉日」「寶金剛寺覚秀求之」の刻銘がある。覚秀は慶長15年(1610)から正保4年(1647)の宝金剛寺の住職。宝冠は彼によって求められたことがわかる。覚秀は、北条氏勝から厚く帰依を受けた覚朝の次の代の住職であり、覚朝の追善のために正保年間頃に五輪塔を造立し、氏勝と覚朝の位牌を誂えた人物として知られている。慶長13年(1608)10月17日に覚朝が覚尊に付法を行うなど、宝冠の制作前より宝金剛寺は伝法灌頂を行う真言道場として位置付けられていたことから、こうした灌頂道具を求めたもの考えられる。
岩富藩は慶長16年(1611)の氏勝没後、末期養子であった氏重が継承したが、同18年には下野富田(栃木県栃木市)に転封されている。覚朝の代では大名の菩提寺としての役割を果たした宝金剛寺も、次の覚秀の代では旧来の土豪層、村役人といった人々を支持基盤とする地域の中心寺院へと役割が変化したと位置づけられている。宝冠の制作に際して、特定の檀越がいたことを示す内容はないことから、こうした変化をうかがわせる資料の一つと捉えることもできる。
玉幡

幡頭・幡身とも銅板を線刻、鍍金した金銅板の一対の幡。幡頭から幡足の根本まで一枚の板で造り、州浜形の幡頭に雲文、三坪の幡身は、第一坪より輪宝・羯磨・蓮華を線刻し、間地に魚々子を打つ。線刻を片面のみに施す片面式で透彫はない。幡足は四条で、花菱形を横四条分、一枚板から切り出した五枚及び金銅瓔珞四段を、緑・黄・紫・無色のガラス玉と交互に連綴している。
裏面の播身縁に左右に分け「下総國印旛郡直弥村皓月山静覚院寶金剛寺什物」「旹宝永二乙酉年 九月吉日 法印亮快代求之」と刻まれている。亮快は宝金剛寺第22代住職。宝冠とこの玉幡とは年記に時代差があるが、寺院に伝来する灌頂道具類の間に時代差があることや、複数のセットが伝来することはままある例であるといい、本玉幡も灌頂道具類の一つであったと考えられる。
幡 附木箱板

幡頭・幡身は一枚板からなり、幡頭は三角、幡身は三坪で、角坪には蓮華を線刻し、間地に魚々子を打ち、坪界や縁には連点唐草文をあらわし、透彫はない。幡足は四条であるがガラス玉の連綴ではなく、金銅剣形板四枚を幡身の下部に蝶番で繋ぎ、足先には鈴を垂らす。幡手も同様で、左右各四条の金銅剣形板を幡身の坪界に鋲留している。幡身は片面線刻だが、幡手は両面に線刻されている。幡頭中央から垂れる一条の幡舌を付けている。幡手・幡足・幡舌には魚々子に七宝繋文を線刻する。
本体には由来を示す刻記などはないが、正徳4年(1714)の墨書のある木箱板が付属している。箱には「地蔵講結衆」「寄進瑶幢二流寶金剛寺俊専代」「于時正徳四年甲午歳霜月廿四日」とあるほか、直弥村、寒風村、天辺村、宮本村、米戸村、八木村、下勝田村の結衆の名前が墨書されている。俊専は亮快の次の代の宝金剛寺住職を務めている。金銅幡では類例の稀有な作例で、七宝繋文などの文様が先の玉幡とよく似ている。時代や制作環境の近似性をよく物語っているといえ、年記を有する基準作として評価できる。
玉幡

幡頭・幡身ともに金銅幡を線刻、鍍金した金銅製の玉幡である。州浜形の幡頭に魚々子、三坪の幡身はいずれも魚々子地に蓮華を線刻する。幡身の縁や坪界には連点唐草文をあらわす。線刻を片面のみに施し、透彫はない。幡足は四条で、単独の花菱形金銅金具をガラス玉と交互に連綴する。材式構成としては玉幡の形制をとるものであるが、小型で坪の模様もすべて蓮華である。線刻や文様など作風は先の玉幡、幡に共通し、同時期の作と判断される。
主要参考文献
- 伊藤信二『幡と華鬘』日本の美術 第542号、ぎょうせい、2011年
- 須賀隆章「「宝金剛寺蔵 銅製 宝冠」について」佐倉市編『佐倉市史研究』第27号、2014年
- 宝金剛寺編『七条袈裟・横被修復記念 文化財が紡ぐ佐倉の歴史 ―宝金剛寺と北条氏勝―』宝金剛寺、2022年
- 伊藤信二『金属製幡の基礎的研究―特に密教における灌頂道具としての用途と機能』(科学研究費基金 基盤研究(C)報告書、2024年
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更新日:2026年08月26日