佐倉市の文化財-史跡(2)「墓・碑 など」
太田図書墓 <おおたずしょ はか> (臼井)
太田図書助資忠<おおたずしょのすけすけただ>は、関東管領扇谷上杉氏の家臣太田道灌の弟です(甥という説もあります)。 臼井城跡の傍にある石碑は、臼井城の合戦にて討死した太田図書の墓と伝えられています。
文明11年(1479年)、上杉方の太田資忠らの軍勢が、足利方の千葉孝胤<ちば・のりたね>らが籠もる臼井城を包囲し、周辺の敵対する諸城を攻略します。 しかし、臼井城の防備は堅固であり、落城する気配がありませんでした。 そのため、資忠らはいったん兵を引き上げようとしたところ、城内から兵が討って出てきました。 これに対して上杉方も反撃を加え、ついに臼井城を落城させました。 けれども、この戦いにおいて、資忠をはじめとする多くの上杉方の武将も戦死しました。
海隣寺中世石塔群 <かいりんじ ちゅうせい-せきとう-ぐん> (海隣寺町)
海隣寺には中世の石塔が数多く残されています。
刻まれた銘文から、本佐倉城(国指定史跡)の城主であった千葉昌胤<ちば・まさたね,法阿弥>・千葉利胤<としたね,覚阿弥>・千葉親胤<ちかたね,眼阿弥>・千葉胤富<たねとむ,其阿弥>・千葉邦胤<くにたね,法阿弥>また、海隣寺住持(其阿弥)などの菩提を弔ったものであることが知られます。
〔昭和50年(1975年)9月17日市指定史跡〕
川口宗重墓 <かわぐちむねしげ はか> (八幡台)
川口氏は戦国時代に織田氏に仕えていましたが、宗勝の代に関ヶ原の戦いにおいて西軍に付き、一時伊達政宗に預けられました。 その後、宗勝は二代将軍秀忠の御家人となり、慶長10年(1605年)印旛・葛飾両郡内にて2500石を知行しました。宗重は宗勝の三男で、慶長17年(1612年)に父の遺領の内、葛飾郡臼井500石を継承しました。後には上総国・甲斐国内に加増され、都合2000石を知行しましたが、承応3年(1654年)に68歳で死去しました。
桔梗塚跡 <ききょうづか あと> (将門町)
『古今佐倉真佐子』には、「此原中大塚一つ有り。芝付てある。桔梗之前がはか也。此原に桔梗一めんに有。一本も花さく事なし。此はか印寛永年中に武州上野(寛永寺)御こんりうの節こん本中堂のむなきに成るよしにて、公儀より切、江戸に上る。三十三間ある木御吟味にて外になし。此はか印間にあふゆへ御用木に切。切木口六尺斗の大男あしをつまだて両手をあげしに上の切口はとゝかざるよし。佐倉にて申伝御用木とは此の木の事也」と記されています。
昭和53年(1978年)2月に保存区域を設定するために確認調査が実施され、古墳であることが明らかとなりました。
佐藤泰然 ・ 舜海 碑 <さとうたいぜん ・ しゅんかい ひ >(本町)
佐藤泰然碑は、旧佐倉順天堂(佐倉順天堂記念館)の裏手の本町街区公園にあります。 泰然の徳をたたえるため、明治23年(1890年)5月に佐藤舜海(1843年~1911年、旧名岡本道庵、佐藤尚中の養子)により造立されました。
佐藤泰然碑の脇には、佐藤舜海の徳をたたえるため、生前の明治35年(1902年)9月に造立された佐藤舜海碑があります。
勝胤寺中世石塔群 <しょういんじ ちゅうせい-せきとう-ぐん > (大佐倉)
大佐倉の勝胤寺には中近世に造立された石塔が数多く残されています。 銘文から天正7年(1579年)5月4日に死去した佐倉城主千葉胤富<ちば・たねとむ>などの菩提を弔ったものであることが知られます。
〔昭和50年(1975年)9月17日市指定史跡〕
土井利勝父母夫人供養塔 <どいとしかつ ふぼふじん-くようとう> (弥勒町)
弥勒町の玉宝山松林寺に3基の宝篋印塔があります。 土井利勝が養父、養母、正室の菩提を弔うために造立した供養塔です。
中央は養母土居利昌の室(葉佐田則勝の長女)の供養塔で、「玉等院殿清誉壽安大禅定尼」と刻まれています。 また、正面向かって左側は養父土居利昌の供養塔で、「宝光院殿本誉見貞大禅定門」と刻まれています。 正面向かって右側は正室の供養塔で、「清光院殿浄誉明徹大姉」と刻まれています。
〔昭和52年(1977年)1月19日市指定史跡〕
道誉上人墓 <どうよ-しょうにん はか> (臼井田)
浄土宗龍沢山長源寺墓地に道誉上人の五輪塔と無縫塔があります。
道誉貞把は、和泉国日根郡鳥取庄(大阪府)で永正12年(1515年)に生まれ、13歳で出家して享禄4年(1531年)には関東へ下り、武蔵国の三縁山増上寺で修業しました。 天文20年(1551年)になると、下総国生実(千葉市中央区生実町)城主 原胤清<はら・たねきよ,?から1556年>の招きにより龍沢山玄忠院大巌寺(千葉市中央区大巌寺町)の開山となり、さらに弘治元年(1555年)に増上寺9世の貫主<かんず>となりました。元亀元年(1570年)12月には臼井城下に龍沢山玄忠院新大巌寺(長源寺)を開山し、天正2年(1574年)12月7日に60歳で死去しました。
堀田正俊 ・ 正睦・ 正倫 墓 <ほったまさとし.・まさよし・まさとも はか>(新町)
安城山不矜院甚大寺に堀田正俊・正睦・正倫の墓があります。
正俊の墓は昭和11年(1936年)に浅草の金蔵寺から移されたものです。 墓石には「不矜院殿又新叢翁大居士」と刻まれています。 正睦の墓石には「故佐倉城主侍従従位四位下紀文明公墓」と、正倫の墓石には「従二位勲三等伯爵紀正倫卿之墓」と刻まれています。
〔昭和53年(1978年)2月28日県指定史跡〕
雷電 墓 (臼井台) <らいでん はか>
顕本法華宗本覚山浄行寺跡の杉山家墓地にあります。
雷電為右衛門の墓には、正面に「雷聲院釋関高為輪信士」(雷電、宗旨真宗)・「聲竟院妙関日為信女」(妻八重、宗旨法華宗)、右側面に「釋理暁童女」(娘)、左側面に「俗名 雲州 雷電為右衛門源為義 施主飯田忠八」と刻まれています。
青菅の大塚・小塚 <あおすげのおおつか・こつか>(青菅)
青菅の大塚は、青菅領主の旗本川口家四代(初代:川口宗勝、二代:川口宗信、三代:川口宗次、四代:川口宗恒)にわたる墓所、小塚は、夫人の墓所と伝えられています。大塚は男塚(おとこづか)、小塚は女塚(おんなづか)ともよばれています。また、伝承では大塚・小塚ともに初代宗勝の時に築造され、大塚には四代すべての「もとどり」が埋葬されていると伝えられており、別名「もとどり塚」とも呼ばれています。
青菅の大塚・小塚周辺では、地域住民により「ミチカリ」がおこなわれており、かつての「ミチカリ」は、塚周辺の清掃および、道に繁る枝を刈り、道を掃いたりする青菅地区の年中行事でした。現在でも当時とは若干姿を変えていますが、毎年行われています。
〔平成22年(2010年)10月1日市指定史跡〕
更新日:2022年08月31日