佐倉市の文化財-脚注
土師器 <はじき> ・ 須恵器 <すえき>
- 土師器…露天素焼きで800℃前後で焼かれた赤褐色または黄褐色の土器。
- 須恵器…窯をもちいて約1100℃の還元焔で焼き上げられた灰色や青黒色の土器。
前方後円墳 <ぜんぽうこうえんふん> ・ 方墳 <ほうふん> ・ 方形周溝墓<ほうけいしゅうこうぼ>
- 前方後円墳…古墳時代の墳墓の一形式で、円形の墳丘に方形の墳丘を付設した古墳。
- 方墳 …平面形が方形の墳丘をもつ古墳。正方形および長方形のものがある。
- 方形周溝墓…方形や長方形に墓の周囲を溝で区画し、その内部や溝中に埋葬をする家族(小集団)墓の一形式。弥生時代前期末から古墳時代前期に、主として近畿地方以東で盛行した。
墨書土器 <ぼくしょどき>
土器に文字や記号を墨書したもの。 まれに人の顔を描いたもの(人面墨書土器)もありますが、いずれも所有や”まじない”を意味すると思われます。8Cから9Cに主に東国で盛行しました。
曲輪・郭 <くるわ>
城館跡などにおいて土塁や堀で囲まれた区域。
道誉上人 <どうよ・しょうにん>
道誉貞把は、和泉国日根郡鳥取庄(大阪府)で永正12年(1515年)に生まれ、13歳で出家して享禄4年(1531年)には関東へ下り、武蔵国の三縁山増上寺で修業しました。 その後、故郷での説法に失敗した道誉貞把は、再び関東に下り、その途中、かねてから霊験あらたかであることを知っていた成田山不動尊で21日間の断食をしました。
天文20年(1551年)になると、下総国生実(千葉市中央区生実町)城主 原胤清(?から1556年)の招きにより、龍沢山玄忠院大巌寺(千葉市中央区大巌寺町)の開山となり、さらに弘冶元年(1555年)に増上寺9世の貫主となりました。 元亀元年(1570年)には臼井城下に龍沢山玄忠院新大巌寺(長源寺)を開山し、天正2年(1574年)に60歳で死去しました。
上杉謙信の臼井城攻撃
永禄9年(1569年)に関東へ進出した上杉輝虎は、原胤貞の守る臼井城を包囲しました。 臼井城には原氏の軍勢とともに、蔭山氏ら北条氏からの援兵も籠城していました。 上杉軍の臼井城攻めは激しく、3月20日には臼井城は上杉勢に攻め込まれ、堀が一重に囲む城の中心部分を残すのみとなってしまいました。
その3日後、上杉軍は臼井城に対して大攻勢を仕掛けますが、城を攻め落とすことはできず、逆に五千余人の死傷者を出す損害を出してしまいます。 このため上杉軍はその晩から臼井より撤退を始め、翌日にはその包囲網が解かれました。
土井利勝 <どい・としかつ>
天正元年(1573年)、三河の国(愛知県)に武士の子として生まれました。
利勝は、徳川家の譜代として力をふるい、関ヶ原の戦いで手柄をたてた功績により、小見川(千葉県)に一万石をもらい大名となりました。 やがて秀忠が二代将軍の座に着くと、老中となり佐倉に三万二千石を与えられました。
元和元年(1615年)、大坂夏の陣で豊臣氏が完全に滅びると、三大将軍家光を助けて参勤交代の制度や武家諸法度などの幕府の規則を定めるとともに、寛永通宝などの通貨を定め、徳川幕府の基礎を固めました。
利勝が佐倉に城を築き始めたのは、慶長16年(1611年)のことで、佐倉城が完成したのは元和3年(1617年)のことです。 佐倉城の整備にともない、城下町の整備も行いました。
利勝は寛永15年(1638年)に大老に任じられ、その後正保元年(1644年)年に72歳で死去しました。
堀田正盛 <ほった・まさもり>
慶長13年(1608年)生まれ。
13歳となった正盛は、将軍徳川秀忠の次男徳川家光に近習<きんじゅう>として仕えることになりました。 ついで、寛永5年(1628年)になると、5700石から一万石に加増されて大名となりました。
正盛がはじめて城主となったのは寛永12年(1635年)のことで、武蔵国の川越城で、その領地は3万5000石でした。 寛永15年(1638年)には信濃国の松本藩主に移され、10万石を領有しました。 佐倉藩主に移されたのは寛永19年(1642年)で、その領地は11万石でした。
正盛は幕府の中心で年寄として活躍して活躍していましたが、慶安4年(1651年)4月20日に将軍徳川家光が亡くなった時、殉死しました。 44歳でした。
堀田正俊 <ほった・まさとし>
寛永11年(1634年)生まれ。
堀田正盛の三男で、5代将軍 徳川綱吉のもとで昇進をとげ、若年寄、老中を経て、天和元年(1681年)には大老にまでなりますが、貞享元年(1684年)に従兄弟稲葉正休に江戸城内で刺殺されました。 51歳でした。
雷電為右衛門 <らいでん・ためえもん>
明和4年(1767年)に信濃国小県郡大石村(長野県東部町滋野大石)で生まれました。
天明4年(1784年)に伊勢ノ海部屋 谷風梶之助(西の大関)の内弟子、天明8年(1788年)に出雲国松江藩主 松平治郷のお抱え力士となりました。 初土俵を踏んだのは寛政2年(1790年)で、寛政7年には大関に昇進しています。 雷電は引退する文化8年(1811年)までの35場所、総取組数285で勝ち254、負け10、引分け2、預かり14、無勝負5、休み30の成績を残しています。
享和元年(1801年)には雷電が臼井宿で相撲の5日間興業をおこない、入場券を30両で売り切っています。 雷電の妻八重(前名おはん)は、臼井上宿で「天狗茶屋」という屋号の甘酒茶屋のひとり娘でした。
文政8年(1825年)に死去しました。
鏑木仙安 <かぶらぎ・せんあん>
鏑木氏は仙安の祖父の代から藩医として佐倉藩主堀田氏に仕える家系でしたが、仙安は藩命により江戸の蘭学者の門下で学んだあと、さらに1年間長崎で遊学を命じられ、蘭学医学の研究を行いました。江原での解剖は無宿人民之助の処刑に際して、鏑木仙安と友人の小柴百之、広瀬元恭の協力で行われました。この解剖は杉田玄白、前野良沢が江戸小塚原で腑分け(人体解剖)を観察してから73年目、全国では11回目の解剖にあたります。
堀田正順 <ほった・まさあり>
寛延2年(1749年)に佐倉藩主 堀田正亮<ほった・まさすけ>の五男に生まれました。 正順には兄がいましたが、体が弱かったため、宝暦3年(1753年)に正順が嫡子と決まり、宝暦11年(1761年)に、佐倉11万石の家督を継ぎました。
正順は、奏者番<そうじゃばん>(安永3年、1774年)、寺社奉行(天明3年、1783年)、大坂城代(天明7年、1787年)、京都所司代(寛永10年、1798年)などを歴任しました。
文化2年(1805年)に57歳で亡くなりました。
佐藤泰然 <さとう・たいぜん>
泰然は、文化元年(1804年)、武蔵国川崎(神奈川県川崎市)で生まれました。
成人した後西洋医学を志して長崎でオランダの医学を学びました。 天保9年(1838年)、江戸にもどった泰然は、薬研堀<やげんぼり>に塾を開き外科専門の治療を行いました。
後に佐倉藩主 堀田正睦に招かれた泰然は、町医者を兼ねた塾「順天堂」を開き、全国からの塾生たちに西洋の医学を教えました。 泰然の塾は、多くの人材を世に送り、日本の近代医学の基礎を築きました。
明治5年(1872年)、69歳で死去しました。
堀田正睦 <ほった・まさよし>
文化7年(1810年)、佐倉藩主堀田正時<ほった・まさとき>の子として生まれました。
学問を学び、西洋の様子についても多くを知るようになった正睦は、佐倉藩主になってからも藩内に西洋の学問を奨励し、佐藤泰然なども江戸から招きました。
幕府の老中に就任後は、国を開くことを朝廷や各大名たちに説きましたが、攘夷論が盛んになる中、安政6年(1859年)に隠居を命じられ、元治元年(1864年)に55歳で死去しました。
西村茂樹 <にしむら・しげき>
西村茂樹は、は文政11年(1828年)に江戸で生まれました。 10歳の時から、佐倉藩の成徳書院で学び、後に佐久間象山に西洋砲術も学びました。 茂樹の学識は誰もが認めるところとなり、嘉永6年(1853年)、佐倉藩の支藩である佐野藩の政治の一切を任されるようになりました。
明治になると、佐倉藩大参事に任じられ、士族授産のため佐倉に製茶業、製靴業を興しました。 さらに文部省に勤め、今の道徳に当たる「修身」の教科書の編修にもあたりました。
明治35年(1902年)、75歳で死去しました。
松本 順 <まつもと・じゅん> = 松本良順 〈まつもと・りょうじゅん〉
天保3年(1832年)、佐藤泰然の次男として生まれましたが、17歳の時に、幕府の御典医松本良甫の養子となりました。
27歳の時には、幕府から長崎に派遣され医学伝習所でオランダの医師ポンペから直接指導を受けました。 文久3年(1863年)、医学所頭取を命じられ幕府の医学研究の中心になりました。 その後明治6年(1873年)には陸軍軍医総監となり、日本の軍医学の発展に大きく貢献しました。
職を退いた後も貴族院議員を歴任し、明治38年(1905年)には、男爵、従三位勲一等瑞宝賞を授けられました。
明治40年(1907年)、76歳で死去しました。
堀田正倫 <ほった・まさとも>
嘉永4年(1851年)生まれ。 堀田正睦<ほった・まさよし>の子で最後の佐倉藩主です。
正倫は、明治になると華族に列せられ、政府の命令により東京に住むことになり、そこで天皇のおそば近くに仕えることになりました。
明治23年(1890年)に佐倉に戻り、佐倉地方の産業や発展のために尽くしました。 特に佐倉中学校(現在の佐倉高等学校)の維持発展に力を尽くしました。
明治44年(1911年)に61歳で死去しました。
香取秀真 <かとり・ほつま>
香取秀真は、明治7年(1874年)に印旛郡船穂村(印西市)に生まれ、5歳の時に麻賀多神社の養子となりました。
18歳の時に上京し、東京美術学校(今の東京芸術大学)鋳金科に入学しました。 卒業後は金工作家として活躍し、多くの賞を受けました。 秀真は、当時金工が美術品として認められないということから、鋳金の仲間を集め国が主催する展覧会に出品できるように運動を起こしました。 その結果、昭和2年(1927年)、国主催の帝展(帝国美術展覧会)に出品できることになりました。
秀真は、金工の歴史についても研究を深め、金工に関する著書を40冊以上記しました。 また、帝室博物館学芸委員、帝国美術院会員、国宝保存会委員などを歴任し、昭和28年(1593年年)に文化勲章が授与されました。 翌昭和29年(1954年)、81歳で死去しました。
更新日:2022年08月31日