台湾台南市山上区長が来訪

更新日:2022年06月01日

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台湾台南市山上区長が佐倉市に来訪されました

平成25年9月26日、台湾の台南市山上区長御一行が佐倉市を来訪されました。

今回の来訪は、衛生工学技師・濱野弥四郎の出身地が佐倉であるということで、山上区長からお話をいただいて実現しました。

濱野弥四郎は、明治から大正にかけての23年間、台湾の上下水道施設の計画・施工に尽力されたかたです。山上区には、彼が造った水道施設や、彼の功績を称えた銅像があり、銅像の台座の銘板には次のような表記があります。

『浜野君千葉県佐倉人也資性温雅持身謹厳…』

当日は、和やかな雰囲気の中、親睦を深めました。

当日の様子

山上区の陳進文区長と市長が並んで撮影された写真

山上区の陳進文区長(左のかた)

市役所1号館前で山上区のみなさんと記念撮影を行なっている様子の写真

山上区のみなさんと市役所1号館前で記念撮影

濱野弥四郎について

1869年9月9日、現在の成田市寺台〔てらだい〕に黒川久兵衛〔くろかわきゅうべえ〕という農家の二男として生まれる。幼少の頃、名前を黒川弥次郎〔くろかわやじろう〕という。

1886年、東京の第一高等中学校に入学。この時、郷里の成田に戻る途中にコレラを発症し、後に養父となる濱野昇〔はまののぼる〕が佐倉で経営していた済生堂病院〔さいせいどうびょういん〕に入院し、治療を受ける。

1888年11月13日、病気療養が縁で濱野昇の養子となり、名前を弥四郎〔やしろう〕と改める。

1893年9月、現在の東京大学工学部の前身である帝国大学工科大学に入学し、スコットランド人教師バルトンの元で衛生工学を学ぶ。

1896年、帝国大学を卒業し、その年にバルトンと共に台湾に渡る。その3年後、バルトンがコレラに罹患して死去した後も台湾に留まり、23年間もの長きに渡り、台湾の主要都市の上下水道を計画・施工。

1919年、台湾から帰国。帰国後、兵庫県神戸市の技師長や都市計画部長を歴任。

1932年12月30日、東京で死去。享年64歳。

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