【文明公追遠碑】(甚大寺堀田家墓所内)
「文明公追遠碑(ぶんめいこうついえんひ)」について
概要
この石碑は、堀田正睦(1810~64)を顕彰するために堀田家の菩提寺である甚大寺の境内に建てられたものです。「追遠」というのは『論語』にある語で、「先祖の徳を追慕して心をこめて供養する」という意味があります。
碑の建設にあたって
甚大寺の堀田正睦の墓
明治14年(1881)、佐倉在住の旧藩士が中心となって正睦を顕彰する碑の建設が計画されました。碑は、明治19年(1886)に堀田家の菩提寺である甚大寺の境内に建てられ、正睦の二十三回忌に合わせて、落成記念の式典が正睦の同席のもと催されました。碑文は正睦の事績を追想して漢文で書かれました。文の撰者は平野重久、書は佐治延年で、ともに藩の重臣を務めた人物です。正睦を「開国第一の功労者」として顕彰し、その功績が記されています。
新たな時代を迎えた明治時代の佐倉では、藩の歴史を見直し、政争に敗れたことにより老中を退いた正睦の名誉を回復する活動が、旧藩士や正倫によって進められました。この碑の建設もその一環として位置付けられていました。そして正睦の顕彰は、大正4年(1915)の正睦に対する贈位が成し遂げられるまで一貫して続きました。こうした活動が実を結び、地域の象徴であった堀田家は、現在も佐倉の人々に親しまれています。
碑の内容について
概要
碑文は漢文で書かれ、文明公の多大な功績はいまだ顧みられないこと、ペリー来航、老中就任、ハリスとの交渉、文明公が上洛し孝明天皇、朝廷に開国の意義を説いた内容が続きます。そして、将軍継嗣問題と老中辞任、公の隠居・死去と碑文の建設について、公の経歴と藩政における功績が続き、最後に公を讃える詩が述べられます。
次に、碑文の内容を意訳したものを掲載しています。
碑文意訳文
文明公の多大な功績はいまだ顧みられず
幕府は法令を下し鎖国政策を厳しく行った。外国の船舶が姿を消して二百年あまりとなる。そして、その親睦平和友好を受け入れ、盟約をただしたのは、実に我が文明公(堀田正睦、以下「公」と表記)が国政にあたったことから始まった。日本の禁制を変更し、幕府の旧令を一新し、広く文明開化が行き渡ったのは、ここに根ざしている。まさしく公は、天下の趨勢を十数年前に見通して、さかのぼってこの計画の処置をなした。当時の民衆は驚き怪しみ向こう見ずの言動を盛んにし、荒々しく暴悪な気勢をおこした。今日、これを観ると、公に宿った知恵は神の如く、ぜひとも後から褒めたたえる盛典があるべきところを、一人として事実の虚構を正し顧みること無く、公の心と事実を天下に知らしめることができていない。何と恨めしいことだろうか。何と悲しいことだろうか。
ペリー来航、公の老中就任、ハリスとの交渉
嘉永6年(1853)、アメリカ大統領フィルモアは、東インド艦隊司令官マシュー・ペリーを遣わし通商と友好を求めた。当時、平和と繁栄の日は久しく、外交は害と耳にすることが多く、人々は怪しみ疑い、議決することはなかった。幕府は官僚や大小の諸侯に通告し、各々の可否を上申させた。文明公は、受け入れることを主とし、平和と戦争の利害を論じた。遂にその求めが聴き入れられ、安政2年(1855)、公は溜間詰から老中となった。老中の中でも一番の位となり、外交交渉にあたった。
同4年(1857)、アメリカは外交官のタウンゼント・ハリスを遣わした。公はまず彼と接見した。ハリスが説くには、君主はすべての人を差別せず平等に仁愛を施し、兄弟のように親しくすることを正しい道としている。アメリカの特派公使を江戸に置き、大いに貿易を行うことを求めた。公は、ハリスの意見を上申した。とうとうハリスの将軍謁見を許しアメリカの国書を受けた。そして、仮に人や貨物の行き来の規則を定め天下に宣布しようとし、(諸大名に)言いたいことを問うた。水戸の徳川斉昭は主として異議を唱え、土佐藩主の山内豊信もまたその不可を論じた。そして、武士、儒学者らは誇張して上から下までを扇動して勝手な議論が紛然とした。
文明公、上洛し孝明天皇、朝廷に開国の意義を説く
幕府は悩み、公を上洛させ、そのことを朝廷に奏請させた。公はまず関白の九条尚忠に会見し、どうにか情勢を述べた。意見を文書にして上申して言うのは、
「今しがた万国は勢力を張りあい、皇帝と称し、王を侮り、なお中国の春秋戦国時代、我が国の室町時代末、戦国時代のようです。どうにかして、国々を一つに合わせなければなりません。すなわち兄弟は、離れれば敵として脅かし、喜びを分かち合えば調和し、怒れば粥の煮え立つごとく乱れ騒ぎます。世の中が治まること、乱れることに大きく関わっているのです。また、一国が一方に留まることはできません。それ故に、離れれば戦わざるを得ず、一つになれば和合せざるを得ないのです。未だこの離合と和戦の外に立ち一人で自らを尊いとする者国はありません。
清国は自分の国だけが他の誰よりも尊いとしてきましたが、近日この国が敗れた様を見るべきです。我が国は四方を海に囲まれ、まさに国々の行きかう船の要衝にあたります。これを拒んで退け、往来や停泊を許可しないのであれば、万国は互いに我が国を訴え、争い、敵とする者が全て集まります。その災いは小々のことではないでしょう。
君主は万民を愛し、世界中の人々はすべて兄弟です。兄弟は互いに信頼して動けば大きな幸いをもたらし、互いに憎み合えば必ず災いとなります。今、世界中の国々の道徳と憎しみの力は等しく互いに越えることはありません。このため、君主たるものは、自らの見識によらず、誰に対しても平等に礼儀を尽くし、使者を相互に遣わした数、商人の往来の便、役人を駐在させ適切に職に励むようにし、長年にわたりこれを行い、権力はすでに人々の及ぶところとなり、人々を集めて善をなし、これが積もって大きく広くして満ちていけば、すなわち世界中の国々が多く集まり一つとなることは難しくないでしょう。陛下が自分だけが尊いという心を持てば、災いと失敗は清国のようになります。兄弟が互いに頼ることを手本とすれば、その効果・功績は先に述べたとおりです。そのようなときは、今日の親睦交誼はどうして世界の混乱を一つにし、万国の盟主となる基礎ではないことを知らないでしょうか、そうではないでしょう。
かつ、我が国は、建国以来、皇統一系であり、彼の国のように朝には秦、夕には漢と変遷極まりなくこのようではありません。そして土地は肥沃で貨幣は豊かに増え、世間は情に厚く、人々は忠実で義に重く、上を敬い天の心の向かうところを知ることができます。陛下、どうして疑って決しないことがありましょうか。どうして顧みないことがありましょうか。」
文明公の言葉遣いは丁寧であわれみ深いものであったので、天皇の耳を感動させた。そして、公卿にこれを議論するよう命令した。公卿たちは文明公の意見を不可とすることに固執し、伝奏官を遣わしその旨を公に「幕府が求める所はやむを得ないところではあるが、近畿の港を開くという一項目はどうにか拒めないか」と伝えた。公はまたその不可を述べた。この時、分別のない言葉が朝廷に満ち公卿らは、ますます前の議論を持ち出し意固地となり説得することができなかった。天皇陛下は、公を召して手厚い贈り物を与えた。公は江戸に戻り再び諸大名に評議させた。
将軍継嗣問題と老中辞任
また、将軍の世継ぎは、賢くかつ年長者を選ぶこととなっており、一橋慶喜卿がふさわしいと考えられていた。多くの大名も同じ意見であった。公もまたこれをその通りであるとしていた。公が江戸に帰ると、井伊直弼が新たに大老となっていた。誰を将軍の世継ぎとするかは議論があわず、公は「国が多くの難局にある中で賢く年長なものを立てるべきである。」と述べた。井伊直弼は、「天下を制御するのに、先祖代々からのきまりがある。どうして年長者である意味があるだろうか。紀伊の徳川慶福(後の家茂)公がおられるではないか。」と述べた。幕閣たちは付和雷同、これに従った。公はああ、と嘆きの声を発し、あえて争うことはなかった。
ハリスはすでに条約に期日を記して印と署名を待っていた。しかし、諸大名が再度議論するも収束することはなかった。公はそうした勢いが緩むことがないだろうとみて、ついに条約に調印することを申し上げた。その後、わずかな間で公は老中を辞め、帝鑑の間詰めの大名となった。条約の調印や将軍の後継者問題で意見が合わなかったためと言われる。
文明公の隠居・死去と碑文の建設
公はこれよりは今の世の中のことを言わず、官職を辞して自ら見山と号して心静かに過ごし、詩歌を作り楽しんだ。公が幕府の中枢より去ると尊王攘夷の言説が転じて盛んとなった。よって、公が外交交渉を急いで進めたと処断し追罪し蟄居させた。文久3年(1863)、イギリスと武力衝突し、都下はおそれびくびくし、荷をまとめて逃げまどった。公は病に伏せ、願い出て佐倉に退いて隠居した。元治元年(1864)3月21日に55歳で亡くなった。同月29日に禁錮を赦す幕命があり、ここではじめて喪を発した。
ああ、公の深い見識、数十年後に至り、天下に果たされることとなった。初めてこれを計り定めようとしたものの、当時は阻まれ実行することができなかった。ただいたずらに実行しなかったのではない。従ってこれを罪としたのはなんと無実の罪ではないだろうか。
近頃、佐倉の元藩士と一般の人々は相計って公の事跡を記して碑を建てようとしている。重久は、かつて公に従って京にあり、深くその苦心や思い煩ったことを知っているので、碑文を序して刻銘することとなった。重久は深く感激し嘆き憤り筆をふるってこれを天下後世に知らしめる。
文明公の経歴と藩政における功績
公の諱は正睦、初めの諱は正篤。不矜公、諱は正俊から数えて九代の子孫である。自性公、諱は正時の庶子である。謙良公、諱は正愛の後を継ぎ、旧領を受け継いだ。文政8年(1825)4月にはじめて当時の将軍文恭公(徳川家斉)に謁見し、従五位下に叙し相模守と称した。同12年、奏者番となり、天保5年(1834)、寺社奉行を兼ねた。更に備中守と称した。同八年、大坂城代となり従四位下に叙された。そのまもなく西の丸老中となり将軍世継ぎの付き添い役となり侍従に任ぜられた。同年12年になって老中となり、同14年に辞めている。溜間格に班し、安政元年(1854)になり溜間に班した。
公は、十一代将軍家斉、十二代将軍家慶、十三代将軍家定の三代の将軍に仕え、厚遇され賜り物も極めて多かった。藩政に心血を注いだ。公の先代の頃は、藩政に用いられる者は腐敗し、酒食におぼれ、凶徒や悪漢と酒を酌み交わしていた。もっとも学問を好み一所懸命につとめる藩士が憎まれた。公が藩主となった頃には、ずいぶんとそうした者たちを退け、学問に勉めるものを登用し、多くの人々に申し渡しを行った。ぜいたくを押さえ、倹約を尊んだ。厳しく衣装、家屋、吉凶、財物を贈り遣るうえでの制度を立て、子弟らには学問を優先し、礼楽、書、算数および医術を学ばせて、藩士が一芸に達しなければ、その俸禄を減らした。藩が一つとなり、心を清め恥を知り、風俗が大いに改まった。
成徳書院を城外に建て、孔子を祀る祠堂を造り春秋の季節ごとに供物をささげ祀った。演武場を開き、槍や刀の武術を教え、銃の戦い方を習わせ、刀剣、銃、大砲を鋳造した。西洋医術に優れた者を招いて藩医の子弟にこれを学ぶよう命じ、藩士の中で才覚に優れた者を選んで西洋の様々な学問を学ばせた。かつて飢饉救助のために倉庫を設け、天保の飢饉の際には佐倉藩領一帯で餓死するものがなかった。領内の民は困窮のため間引きを行った。公は自ら諭文を作りこれを禁じた。そのため、養育方を立て、年長者や高齢者を敬い世話をするための制度や規範を整えた。天然痘の予防接種である種痘をあまねく行った。
藩主となってまもなくの頃、領民は八万人に過ぎなかったものの、晩年は十一万人であった。藩主を継いでおよそ三十五年の間徳政を敷き、民はこれをよろこび推し戴かないものはなかった。
公は文書を読めばすぐに大意を捉えた。要は実践することにあった。音楽を嗜み和歌を好んだ。心が悦び気持ちが和らいだためだろう。亡くなった翌月の某日に城の東の甚大寺に葬られた。「文明」と諡が贈られた。夫人は榊原家から入られたが先に亡くなり、側室が八人男子を産んだ。正倫は従五位となったが弟の正顕は病没し、他の男子たちは幼くして亡くなった。十五人の女子があり、五人が嫁ぎ、他の女子たちは幼くして亡くなった。
文明公を讃える詩
銘文に記す
それ(公が為そうとした開国交渉)を行うことができるか。
(当時の世は)どうして力を出してこれに食い込もうとするのか。
それを阻んでできないようにするのだろうか。
心変わり、その轍(公の為そうとしたこと)をたどっているではないか。
風吹き土降り天地は暗く、白黒の分別がつかない。
汚れない真心は久しく、無実の罪を被り心は晴れない。
これを碑文によって真の姿に直し、人々は初めて思いさとる。
国は既に為すすべもなく、故郷の佐倉にこれを為す計略がある。
ここに優れた人材を登用し、
ここに金銭や飲食をむさぼるものを退け、
文武を重んじ、多くの制度を秩序よく整えた。
もし公が為そうとした開国交渉が邪魔されず為すことができれば、
どうして藤のつるの如くおちぶれることがあろうか。
公の仁政と教えはあまねくゆきわたった。
とこしえに輝かしいその功績を敬う。
明治十六年(一八八三)十一月
従三位 松平確堂 篆額
旧佐倉藩執政 佐治延年 書
更に詳しく知るために…
碑文の読み下し文・意訳文と語釈を加えた下記のPDFファイルをご参照ください。
文明公追遠碑読み下し文・意訳文 (PDFファイル: 1.9MB)
主要参考文献
- 八重尾等「堀田正睦追遠碑」佐倉市史編さん委員会編『佐倉市史研究』第7号、佐倉市、1987年
- 八重尾等『郷土史探訪(3)石碑は語る 江戸の残照』1995年
- 宮間純一「明治・大正期における幕末維新期人物像の形成―堀田正睦を事例として―」佐倉市総務部総務課佐倉市史編さん担当編『佐倉市史研究』第22号、佐倉市、2009年
- 宮間純一『国葬の成立―明治国家と「功臣」の死』勉誠出版、2015年
碑に関わる人物について
堀田 正睦(ほった まさよし)
堀田正睦肖像写真
幕末期に老中を二度務めた佐倉藩主。父は正時。文政8年(1825)に先代の正愛が亡くなると家督を継ぎました。奏者番、寺社奉行、大坂城代、西丸老中を経て、天保12年(1841)に老中に就任し天保の改革に参画。改革失敗後は藩政改革を推し進め、渡辺弥一兵衛治らを用い藩の財政を立て直しました。さらに、蘭学を奨励し藩校を成徳書院として拡充しました。
安政2年(1855)に阿部正弘の推挙により老中に再任。日米修好通商条約の締結のためハリスと協議を進めました。同5年(1858)に条約締結の勅許を得るため上洛するも得られず失敗。この最中、大老となった井伊直弼と将軍の後継者問題に絡んで対立し、老中を罷免されてしまいます。
翌年に家督を嫡子の正倫に譲って隠居。文久2年(1862)、蟄居を命ぜられ元治元年(1864)に佐倉城内の松山御殿にて亡くなりました。「文明公」は、正睦の諡(死後にその徳や功績をたたえて贈られた称号)です。
碑の作成に関わった重臣たち
平野 重久(ひらの しげひさ)
1814年生まれ~83年没。正睦・正倫に仕えた佐倉藩重臣の一人です。平野重美の子で天保14年(1843)12月に家督を相続。成徳書院教授、総裁を務め、開国の交渉にあたった正睦を支えました。元治元年(1864)の天狗党の乱の際には佐倉藩兵を率い乱の鎮圧にあたったことでも知られています。正倫が徳川慶喜の助命嘆願のために上京している時期には佐倉の留守を預かりました。
明治2年(1868)の版籍奉還後、佐倉藩大参事を務めました。その後は佐倉藩史の編さん事業に携わり『佐倉藩雑史』全十三巻をまとめています。この碑の撰文を終えた一か月後の明治16年(1883)12月、碑の完成を見ることなく亡くなっています。
佐治 延年(さじ のぶとし)
正睦・正倫に仕えた佐倉藩重臣の一人です。佐治茂右衛門延齢の子。天保9年(1838)、父の死去により当主となり五百石を受け継ぎました。彼の父、または彼の所用の甲冑が、現在麻賀多神社に残っています。側用人、学問奉行、年寄役などを務めました。慶応3年(1867)の徳川慶喜助命嘆願のため正倫と共に上京しています。
佐治延済(のち済)は弟で文久3年(1863)に延年の養子となり跡を継ぎました。彼は、明治期の堀田家の家令を務めたことで知られています。
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更新日:2025年01月16日